民族の衰亡とロシア化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:22 UTC 版)
「エストニアの独立回復」の記事における「民族の衰亡とロシア化」の解説
その後、1941年から1944年までのドイツ占領時代を経て、再びバルト三国はソ連の勢力下に入った。ソ連支配下の三国にもたらされたのは、政治的・経済的な社会主義化のみならず、社会的・文化的にも徹底した民族主義の弾圧とロシア化であった。エストニア・ソビエト社会主義共和国では、1940年から1941年までに約6万人の「反ソ分子」が強制移住・殺害の対象となり(恐怖の冬(ロシア語版))、1944年秋までには6万9000人が国外へ亡命した。続く1944年から1952年までには12万4000人が強制移住させられ(プリボイ作戦(英語版))、多くがシベリアの地で横死した。 エストニア人の10人に1人が喪われた後には、工業化を口実として大量のロシア人(英語版)がエストニアに入植してきた。独立時代には90パーセントを超えていたエストニア人の割合は、1989年までに61.5パーセントにまで低下した。代わりに流入した大量のロシア人はエストニア語を学ぼうともせず、また当局によるロシア語(ロシア語版)強制政策も実施され、エストニア人は己の民族文化(英語版)の存亡に強い危機感を抱くようになった。
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