民族の覚醒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)
詳細は「アルメニア問題(ロシア語版)」および「アルメニア民族解放運動(英語版)」を参照 オスマン=ロシア両帝国に分割されて暮らしていたアルメニア人であったが、西欧で発生した1848年革命は、彼らの間にもそれぞれ民主化運動の機運を呼び込むこととなった。モスクワやサンクトペテルブルクで教育を受けたロシア側のアルメニア人には、ロシア流の革命思想に影響された反帝政主義者が多かった。これらの革命思想は国境を越えてオスマン側へも流入し、また、1820年代からアメリカがオスマン各地に派遣した宣教団によっても、西欧流の民族解放思想が、東アナトリアのアルメニア人に浸透していった。1885年にはアルメニア史最初の政党とされるアルメナカン党(アルメニア語版)がヴァンで設立され、2年後にはジュネーヴで民族社会主義政党の社会民主フンチャク党(英語版)が結成された。1890年にはチフリスでアルメニア革命連盟(ダシュナク党)が結成され、これはオスマン・アルメニア人解放のためには武力闘争も辞さない強硬派として、アルメニア人政党の最大勢力へと発展していく。 対して、西欧で教育を受けた富裕層のオスマン・アルメニア人には、当時の新オスマン人(英語版)運動に共鳴し、帝国支配の下での権利拡大を求める穏健派が主流であった。1839年からのオスマンでは、ギュルハネ勅令によってタンジマート改革が開始され、非ムスリムに対してもムスリムと対等の市民的権利が保障されるようになっていた。また、対ロシア戦争のあとにはオスマン・アルメニア人の処遇は西欧の関心の的となっており、サン・ステファノ条約とベルリン修正条約においても、アルメニア人の待遇改善と安全保障がその第19条と第61条で求められていた。 しかし、タンジマート期から行われた一連の政治改革は、そのあまりに急激な民主化政策から、保守派のムスリムと急進派のキリスト教徒との対立激化につながった。さらに、皇帝アブデュルハミト2世は対ロシア戦争と同時にミドハト憲法も停止し、改革路線を専制へと転換していた。また、西欧諸国はオスマンに対する互いの権益から牽制しあい、アブデュルハミトによる専制化に対しても無力であった。
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