第二共和政期の政党活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 02:53 UTC 版)
「トルコの政党」の記事における「第二共和政期の政党活動」の解説
1960年の軍事クーデタにより、民主党は解散処分となり、首相のメンデレスが処刑されたほか、大統領のバヤル以下、多くの党幹部が有罪判決を受け、民政移管まで身柄を拘束され続けた。 翌1961年の民政移管により実施された総選挙では、イノニュ率いる共和人民党が総選挙で第一党となったが、旧民主党支持者により設立された公正党が第二党となった。公正党は、その後1960年代に実施された2回の総選挙で議会第一党勢力となり、1971年まで党首スュレイマン・デミレルの下で長期政権を維持した。 1970年には公正党内の対立により、フェッルフ・ボズベイリらのグループが公正党を離党し、民主党(Demokratik Parti)を結成、公正党政権は求心力を削がれることになった。1971年には、公正党政権の指導力不足を指弾する軍部の圧力により、デミレル政権は総辞職に追い込まれる事件が発生し、公正党は政権党から脱落した(「書簡によるクーデター」)。 1970年代に実施された2回の総選挙では、中道左派(Ortanın Solu)に党の路線を左傾化させた共和人民党と、中道右派の公正党の2大政党が、議席を争ったが、いずれも単独で過半数の議席を獲得することはできなかった。このため、国民救済党、民族主義者行動党、共和信頼党等の中小政党が政局のキャスティング・ボートを握り、共和人民党のエジェヴィトと、公正党デミレルの間で短期間に政権交代が繰り返される不安定な政局が発生した。 1970年代の政党政治家は、経済政策や国内治安対策に有効な施策を取ることができなかったため、軍部はこれを政党政治の限界として捉えて、軍事クーデターの敢行を決意した。1980年には、任期満了を迎えたコルテュルク大統領の後任を議会が選出できず、政局は行き詰まりを見せた。しばしば連立政権の与党となった国民救済党は、アタテュルク以来の国是である世俗主義に公然と異議を唱え、コンヤで示威行為を行ったため、軍部はこれを口実にして、1980年9月12日に軍事クーデターを敢行した(9月12日クーデター)。
※この「第二共和政期の政党活動」の解説は、「トルコの政党」の解説の一部です。
「第二共和政期の政党活動」を含む「トルコの政党」の記事については、「トルコの政党」の概要を参照ください。
- 第二共和政期の政党活動のページへのリンク