共産党への失望と離党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 04:26 UTC 版)
昭和25年(1950年)6月、北朝鮮の金日成が軍事境界線を越えて侵攻したことに始まる朝鮮動乱の余波は、米軍占領下の日本国内へも共産党弾圧となって顕在化する。 日本共産党は、ここに及んで武力革命路線を鮮明にし、武装蜂起を全国同胞に呼びかけた。 昭和27年(1952年)1月、札幌では一人の警部が射殺されたのを共産党のテロ行為と認定し、当局が村上国治という党員を起訴した所謂「白鳥事件」が起き、5月には東京の宮城前広場で、6000人のデモ隊と5000人の警官隊が大乱闘となる「メーデー事件」が勃発する。 この時、賢治は党の武装革命路線と対立することになる。 長い年月をかけて地道な活動を通して信頼され、支持者を多く得られてこそ、革命は成功する。今、長万部のような小さな町で、5、6人で竹槍や角棒で警官を襲ったところで、共産党は危険分子だと認定され、ひとたまりも無く叩き潰されるだろう — 立石賢治 しかし、賢治の意見は共産党上層部から厳しく批判された。悩んだ末に、賢治は札幌の共産党北海道地方委員会へ陳情に赴くが完全無視される。一方で、次期、北海道議会選挙の候補者として擁立されるが、新しく北海道へ赴任してきた党上層部の人物とも意見が対立し、党の中央委員会の先輩に書簡を送って相談をするが、正規のルート以外から党を批判することが出来ない仕組みになっていることなどから、孤立を深め翌昭和28年春に日本共産党を離党。
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