大船団主義とミ船団廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 06:09 UTC 版)
「ヒ86船団」の記事における「大船団主義とミ船団廃止」の解説
「ヒ船団」も参照 大東亜戦争後半の日本は、占領下にあるオランダ領東インドの油田から重要資源である石油を本土に運ぶため、シンガポールと門司の間でヒ船団と称する大型高速タンカー主体の専用護送船団を運航していた。ヒ船団は、シンガポールへの往路には奇数、門司へ帰る復路には偶数の船団番号が付されており、ヒ86船団は通算86番目(復路43番目)のヒ船団を意味する。また、ヒ船団と並ぶ石油輸送船団として、ボルネオ島ミリ航路に低速の中小タンカー主体のミ船団を就航させていた。 大日本帝国海軍の海上護衛総司令部は、アメリカ潜水艦による通商破壊に対抗するため、1944年(昭和19年)4月頃から護送船団の大規模化を図っていた。船団を集約化することで、護衛艦の集中などを図るねらいがあった。特に重要船団であるヒ船団やミ船団は、護衛艦を含めると15隻から30隻以上の大型船団が多く運航された。この大船団主義は、潜水艦対策として一定の成果を上げた。ただし、空襲に対する防御力は限定的であった。 1944年10月にレイテ島にアメリカ軍が上陸し、フィリピン戦が始まると南方占領地と日本本土を結ぶシーレーンはいっそう大きな脅威にさらされるようになった。レイテ沖海戦で連合艦隊主力が壊滅し、制海権・制空権は日本の手から急速に失われた。ミ船団は、航路をフィリピン寄りからインドシナ半島寄りに変更するなどして継続を図ったが、積出港のミリがモロタイ島から飛来する爆撃機の空襲で危険となり、同年11月までで廃止となった。それでも大日本帝国海軍は、ヒ船団だけは維持しようと努力し、タンカーの不足を補うべくミ船団用だった低性能タンカーも、ヒ船団に振り向けることにしていた。
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