大東亜戦争後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 06:12 UTC 版)
大東亜戦争後に日本がソ連を含む連合国軍の占領下にあった中で執行猶予が解けた。その後は実家の資産を投じて『グラフィック』誌の仲間と共に『世界画報』を創刊。また、新設プロ野球球団である「セネタース」(現在の北海道日本ハムファイターズ)のオーナーを短期間務めるなど、相続権こそ失ったものの、潤沢な実家の資産をばら撒きながら自由な生活を享受した。 1947年(昭和22年)には、 戦前の反社会的活動があったにも関わらず、第1回参議院議員通常選挙に無所属で出馬して当選。しかし肝臓ジストマに侵されていた公一は参院で欠席の記録を作り、当然議員としては見るべき活動ができず、2回目の参院選には落選。1954年(昭和29年)には京都市長選挙に出馬して落選する。 このあたりより、第二次世界大戦で消えたかと思った左寄りの姿勢が再び表ざたになり、1955年(昭和30年)には、冷戦下でソ連や東ドイツ、ポーランドなどの東側諸国(社会主義国)政府の主導で設立された「世界平和評議会」に、日本共産党系の日本平和委員会から「日本代表」として送られ、そのままオーストリアのウィーンの評議会の執行部に「書記」の身分で単身滞在し3年間を過ごす。
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