大東亜共栄圏の実態と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 17:56 UTC 版)
「大東亜共栄圏」の記事における「大東亜共栄圏の実態と評価」の解説
大東亜共栄圏は、アジアの欧米列強植民地をその支配から独立させ、大日本帝国・満州国・中華民国を中心とする国家連合を実現させるものであるとされた。大東亜共同宣言には、『相互協力・独立尊重』などの旨が明記されている。 しかしながら、大東亜共栄圏を構成していたフィリピン第二共和国、ラオス王国、ビルマ国、満州国の各政府と汪兆銘政権(中華民国)は、実際にはいずれも日本政府や日本軍の指導の下に置かれた傀儡政権または従属国であるとされる事もあり、「実質的には日本による植民地支配を目指したものに過ぎなかった」とする意見も中にはある。特に、フィリピンとビルマに関しては戦前には民選による自治政府が存在し、日本の影響下に置かれた大東亜共栄圏内にあっては選挙等の民主的手続きによらず、政府首脳には日本側が選任した人物(親日的、協力的な人物)が就任していたため、「実質的な独立からはむしろ遠ざかったのではないか」という批判もある。 1943年(昭和18年)5月31日の御前会議で決定された「大東亜政略指導大綱」ではイギリス領マラヤ、オランダ領東インド(蘭印)は日本領に編入することとなっていた(但し、蘭印については、1944年(昭和19年)9月7日の小磯声明で将来的な独立を約束した)。特にイギリス領マラヤの一部だったシンガポールは、日本への編入を見越して昭南特別市と改称された。この「大東亜政略指導大綱」にはこれらの地域を日本領とする理由が「重要資源ノ供給源」とするためと明確に謳われており(第二 六 (イ))、しかもこれについては「当分発表セス」とされていた。大東亜政略指導大綱による日本政府の意図としては、大東亜共栄圏はあくまで日本が戦争を遂行するためのものであった。また、当時の日本の知識人も「大東亜の民族解放は民族皇化運動である」、「大東亜共栄圏の構想に於いては、個別国家の観念は許されるべきではない」などと明言しており、大日本帝国を頂点としたヒエラルキー構造にアジア各国を組み込んでいく構想だったことが伺える。 フィリピンは1944年の独立がすでに約束されており、日本も1943年5月に御前会議でフィリピンを独立させた。1945年の日本の敗戦後、1946年のマニラ条約によりフィリピン第3共和国が独立した。 1941年にドイツの強い影響下にあったヴィシー・フランスの植民地インドシナ連邦(仏印)においては、日本軍はヴィシー政府と協定を結んでインドシナに駐留し(仏印進駐)、フランス植民地政府による支配を1945年(昭和20年)3月9日の明号作戦発動まで承認した。日本の敗戦後、インドシナ支配を回復したフランスと独立を目指すベトミンの間で第一次インドシナ戦争が勃発し、長いインドシナ戦争の時代を迎えることになった。 日本軍は共栄圏内において日本語による皇民化教育や宮城遥拝の推奨、神社造営、人物両面の資源の接収等をおこなった事もあり、実質的な独立を与えないまま敗戦したことから、日本もかつての宗主国と同じ加害者であるという見方がある一方で、日本が旧宗主国の支配を排除し、現地人からなる軍事力を創設したことが戦後の独立に繋がった、よって加害者ではなく解放者だったという評価や、基本的には日本はあまり良い事をしなかったとしつつも、大東亜共栄圏下で様々な施政の改善(学校教育の拡充、現地語の公用語化、在来民族の高官登用、華人やインド人等の外来諸民族の権利の剥奪制限等)が行われたため、旧宗主国よりはずっとマシな統治者だったという見方もある。一方で1943年(昭和18年)7月1日の厚生省研究所人口民族部(現・国立社会保障・人口問題研究所)が作成した報告書では、日本人はアジア諸民族の家長として「永遠に」アジアを統治する使命があると記されていることから、結局大東亜共栄圏の構想は欧米の植民地主義にとって変わる新たなる植民地主義の到来にすぎなかったという意見もあり、その功罪と正否については今なお議論が続いている。 肯定的な評価としては、イギリスの歴史学者トインビーが1956年10月28日の英紙『オブザーバー』に発表した以下のような分析が知られている。 第二次世界大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。 — アーノルド・J・トインビー 英紙『オブザーバー』11面、1956年10月28日
※この「大東亜共栄圏の実態と評価」の解説は、「大東亜共栄圏」の解説の一部です。
「大東亜共栄圏の実態と評価」を含む「大東亜共栄圏」の記事については、「大東亜共栄圏」の概要を参照ください。
- 大東亜共栄圏の実態と評価のページへのリンク