大東亜文学者会議
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1942年1月、水上温泉に旅行。1942年5月26日に設立した日本文学報国会が企画運営した「大東亜文学者会議」は、その目的を「大東亜戦争完遂、大東亜共栄圏確立について文学者として挺身協力の方途を議し、亜細亜文学者の大使命を明かにす」とされ、横光はその決議文起草に参加した。1942年11月5日の第一回会議では横光は小説部会幹事長として宣言文を朗読し、1943年(昭和18年)8月25日の第二回会議では所信表明演説を行った。また文芸報国会で九州で講演。 1942年12月に刊行した『刺羽集』では、筧克彦の『国家之研究』(1913年(大正2年))の一節「皇国の国法は随神道、即ち、古神道の顕現に外ならぬ。各人は即ち八百万の神の顕現であり、国法は神道の現れである。」を引用して、「日本人を神として取扱ふ我が国の国法のこれが原理である。この爽やかな、愛情に満ちた意識を根底としている文化について、怪しむに足るだけの何が自分らの知の中にあるだらうか」と書いている。また橿原神宮を参拝して、「八紘一宇」(八紘を掩いて宇と為さん事)について「この崇高な道徳こそ、世界最高の神意たること、瞬時も決戦下われわれの心から失せしめ給ふな」と祈ったと東京日日新聞で書いた。 1943年(昭和18年)『旅愁』第三篇を刊行。1943年3月31日付で海軍報道班員として戦時徴用を受け、4月のニューギニア派遣の話が実現寸前までいったが病気で中止となる(親しい人に書簡で伝えている)。しかし、その前後の1942年の初夏と1943年8月に2度ほど、ラバウル近辺に派遣された(坂井三郎の証言による)。
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