大東亜戦争肯定論とは? わかりやすく解説

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だいとうあせんそうこうていろん〔ダイトウアセンサウコウテイロン〕【大東亜戦争肯定論】

読み方:だいとうあせんそうこうていろん

林房雄による評論雑誌中央公論」に昭和38年1963)から昭和40年(1965)にかけて連載単行本昭和39年(1964)、昭和40年(1965)に正続2冊を刊行


大東亜戦争肯定論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/25 04:58 UTC 版)

大東亜戦争肯定論
作者 林房雄
日本
言語 日本語
ジャンル 評論
発表形態 雑誌連載
初出情報
初出 中央公論1963年9月号 - 1965年6月号
刊本情報
出版元 番町書房
出版年月日 1964年8月5日(正)
1965年6月1日(続)
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大東亜戦争肯定論』(だいとうあせんそうこうていろん)は、林房雄の歴史評論書。林は、大東亜戦争の開始を、オランダ・ボルトガル以外のアメリカやロシアなどの外国艦船(軍艦)が日本近海にしきりに出没し始めた弘化2年(1845年)とし、西欧勢力の東漸に対する反撃として「大東亜百年戦争」を本質は解放戦争であると主張した[1]1941年(昭和16年)12月8日の対米英戦争開戦に対する日本人の快哉の叫びの意味を「東亜百年戦争」という視点から捉え直そうとした論だと言われている[2]福田恆存の見立てでは、肯定論の「肯定」は、「否定論の否定」という意味だとされる[2]

林は戦後、GHQによる公職追放を受け、中間小説などを発表していたが、1963年(昭和38年)、『中央公論』9月号に「大東亜戦争肯定論」を発表して論壇再登場となった[3]

発表経過

初出は『中央公論』(1963年9月号 - 1965年6月号)に連載され、単行本は1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)にかけて正・続二冊にまとめられ番町書房から出版された[注釈 1]。1976年に合冊本の改訂新版[注釈 2]が、1984年(昭和59年)に新書版[注釈 3]が出され、2001年に復刻版[注釈 4]が刊行された[4]。東亜解放百年戦争史観にもとづく『緑の日本列島』[5]が『東京新聞』に連載された[6]

内容

林は本書で、戦後「太平洋戦争」と称され、GHQにより禁止用語となっていた「大東亜戦争」の名称をあえて用い、「東亜百年戦争」という、欧米列強諸国による「東漸する西力」に対する戦争であったという視点で捉え、その戦いは、嘉永6年(1853年)のペリー来航より以前の弘化年間(1844年1848年)に、日本近海でオランダ・ボルトガル以外のアメリカやロシアなどの外国艦船(軍艦)がしきりに出没していたことに対する不安感や危機感から水戸藩徳川斉昭藤田東湖の「攘夷論」、平田篤胤とその門戸たちの「日本神国論」が唱えられ始めたときから始まったと位置づけている[7][2]

それから、薩英戦争馬関戦争を経ての攘夷・開国となり、明治維新後は日清戦争日露戦争日韓合邦、昭和になり満州事変日支事変から英米との全面戦争へと突入した[7]。この幕末以来の「尊皇攘夷」論の締めくくりとして戦ったのが「大東亜戦争」だったのではないかという歴史観を林は唱えている[2]

林は、欧米列強の強力な鉄環に対して日本は戦い続ける以外に道はなかったとし、そうしなければ、他のアジアの中国や東南アジア諸国、インドのように欧米の植民地となっていただろうとしている[7]

幕末の「薩英戦争」と「馬関戦争」を侵略戦争と呼ぶ歴史家はさすがにいない。しかも、「大東亜戦争」という「無謀きわまる戦争」の原型はこの二つの小戦争の中にある。この百年間、日本は戦闘に勝っても、戦争に勝ったことは一度もなかった。(中略)「東亜百年戦争」の中のどの戦争においても、申しあわせたように、「勝敗を度外においた、やむにやまれぬ戦争」という言葉がつかわれていることに注意していただきたい。これはただの戦争修辞でも、偶然でもない。それを戦った日本人の実感であり、本音であったのだ。
林房雄「大東亜戦争肯定論」[7]

また林は、柳条湖事件当時に親米英路線をつらぬこうとした幣原喜重郎の考えの裏側には、「感傷的な平和主義と同時に、日本は世界の「列強」の一つとして、英・米・仏・ソ連と協力し、平和に、シナと東洋諸国を支配し搾取して、繁栄を楽しむことができたであろうという狡猾な意図もかくされている」とし、その路線はすでに第一次世界大戦での日本が英米仏露の側に立っていたにもかかわらず「平和」と「繁栄」は続かなかったことからも、西欧列強に対する甘い考えであり、彼らの征服目標は中国だけではなく、近代化していた日本も目標から外されてはなかったため、そうした西欧列強とともに歩む「平和」路線というものは、所詮は非現実的な夢想だったと指摘している[7]

パナマ運河開通以後のアメリカの対アジア政策は「白い太平洋」――太平洋を白人の海にする構想の上に立っていた。アジアにおける唯一の独立国として「白い太平洋」の実現をさまたげつつ成長する日本に対するアメリカの「不信」は、最初から決定的なものであった。
林房雄「大東亜戦争肯定論」[7]

武装せる天皇制

林は、「東京裁判」はいかなる意味でも全く認めないとし、あれは戦勝者の敗戦者への復讐だったとしている。しかし、全国民は有罪であり天皇とともに有罪だとしている。

天皇もまた天皇として戦った。日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民とともに戦ったのだ。「太平洋戦争」だけではない。日清日露日支戦争を含む「東亜百年戦争」を、明治大正昭和の三天皇は宣戦の詔勅に署名し、自ら大元帥の軍装と資格において戦った。男系の皇族もすべて軍人として戦った。「東京裁判」用語とは全く別の意味で「戦争責任」は天皇にも皇族にもある。これは弁護の余地も弁護の必要もない事実だ。
林房雄「大東亜戦争肯定論――武装せる天皇制【未解決の宿題】」[8]

三島由紀夫による広告文

三島由紀夫は、同書の広告文として「これは比類なき史書である。行文の裏に詩が感じられる史書といふものを最近私は他に読んだことがない。この本は本当に生きものとしての日本及び日本人をとらへてゐる」と書いた[9]

「大東亜戦争肯定論」論争

1961年(昭和36年)に上山春平が「大東亜戦争の思想史的意義」で太平洋戦争という呼称を占領下の所産と指摘し[10]、戦中派として戦争の意味、意義を問うなど、占領権力による「太平洋戦争史観」しかなかったなかで、見直し史観が出されつつあった[3]。1963年(昭和38年)に林が大胆に「肯定論」を打ち出したことは驚きをもって受け止められ[3]、1964年(昭和39年)に上山は「再び大東亜戦争の意義について」で植民地再編成の戦争であると主張した[11]

1965年(昭和40年)、林の「大東亜戦争肯定論」は、『中央公論』7月特大号で羽仁五郎[12]の批判を受け、『中央公論』9月号の"特集・「大東亜戦争肯定論」批判"では、井上清[13]星野芳郎[14]吉田満[15]小田実[16]らの批判を受けた。また、竹内好は、興亜と脱亜の両面から分析し、対中国戦争が侵略戦争であると主張した[1]

パール論争

2007年(平成19年)、中島岳志は、小林よしのりが『戦争論』で『パール判決書』の一部分を都合よく切り取り、『大東亜戦争肯定論』の主張につなげることには大きな問題があると批判し、西部邁牛村圭八木秀次らを巻き込む論争に発展した。

論評

吉田裕によれば、山岡荘八が1962年(昭和37年)から1971年(昭和41年)にかけ『講談倶楽部』や『小説現代』に連載した「小説太平洋戦争」には、林の議論の強い影響が感じられる、という[17]

丸川哲史によれば、叙述の形態は歴史学者がするような資料批判を通じたものではなく、「実感」を元にして展開された論である色彩が強いが、1990年代以降の「新しい歴史教科書を作る会」に代表されるような「」のイデオローグたちのように、「自虐史観」なる用語によって仮想敵たる「」を押しのけようとする政治意図は薄い、という[18]

浜崎洋介は、竹内好が大東亜戦争開戦当時に議論された「近代の超克」について「日本近代史のアポリア(難関)の凝縮」だと評したことを挙げ、同じことは「日本近代の戦争史全体」にもいえるとし、「日本の戦争そのものが、近代化(帝国主義化)しなければ自主独立を果たし得ず、しかし近代化(帝国主義化)すればするほどに己の素面(アイデンティティー)を見失わざるを得ないといったアポリアの中にあった」と論じつつ、「その意味で言えば、林房雄が近代日本の戦争を、一つの『東亜百年戦争』として捉えたことも故なしとはしない」と述べた[19]。また浜崎は、「肯定」という意味合いには、「近代日本が避け得なかった運命に対する引き受けの思いが込められていた」と述べている[2]

辻田真佐憲は、同じ肯定論でもコミンテルン陰謀史観とは別格で、完成度が高く意外と説得力があると評している[20]

脚注

注釈

  1. ^ 林房雄『大東亜戦争肯定論』番町書房、1964年8月5日 発行。林房雄『続・大東亜戦争肯定論』番町書房、1965年6月1日 初版発行。
  2. ^ 林房雄『林房雄評論集第6巻 新訂・大東亜戦争肯定論』浪漫、1974年6月10日 初版発行、0095-740020-9226、解説 名和一男。
  3. ^ 林房雄『大東亜戦争肯定論 上〈やまと文庫4〉』心交会、1984年8月15日発行、ISBN 4-89522-104-0。林房雄『大東亜戦争肯定論 下〈やまと文庫5〉』心交会、1984年8月15日発行、ISBN 4-89522-105-9
  4. ^ 林房雄『大東亜戦争肯定論』夏目書房、2001年8月15日 初版第1刷発行、ISBN 4-931391-92-3

出典

  1. ^ a b 著者代表=松本健一『論争の同時代史』新泉社、1986年10月15日・第1刷発行、367-377頁。
  2. ^ a b c d e 「第六章 日本近代とは何だったのか? III『大東亜戦争』という視点――林房雄『大東亜戦争肯定論』」(浜崎 2022, pp. 197–203)
  3. ^ a b c 文藝春秋編『戦後50年 日本人の発言 [下]』文藝春秋、1995年8月15日 第一刷、ISBN 4-16-505370-8、63頁。
  4. ^ 尹健次「ナショナリズムと植民地支配」後藤道夫山科三郎編『講座 戦争と現代4 ナショナリズムと戦争』大月書店、2004年6月18日第1刷発行、ISBN 4-272-20084-4、185頁。
  5. ^ 安永武人「戦時下の文学〈その四〉」『同志社国文学』第4巻、同志社大学国文学会、1969年3月、94頁、CRID 1390009224910196608doi:10.14988/pa.2017.0000004833ISSN 0389-8717 
  6. ^ 林房雄『緑の日本列島-激流する明治百年-』文藝春秋、1966年8月5日 第一刷、330頁。
  7. ^ a b c d e f 「I 大東亜戦争への視角 【『大東亜戦争肯定論』の衝迫力】」(富岡 2006, pp. 22–30)
  8. ^ 「武装せる天皇制-未解決の宿題」林房雄『大東亜戦争肯定論』番町書房、1964年8月5月 発行、156頁。
  9. ^ 三島由紀夫「林房雄著『大東亜戦争肯定論』広告文」(日本読書新聞 1964年11月9日)。33巻 2003, p. 210
  10. ^ 上山春平「大東亜戦争の思想史的意義」『中央公論』第76巻第9号 通巻886号 1961年9月号、98-107頁。
  11. ^ 上山春平「再び大東亜戦争の意義について」『中央公論』第79巻第3号 通巻917号 1964年3月特大号、48-60頁。
  12. ^ 羽仁五郎「"大東亜戦争肯定論"を批判する-すべての戦死者にささぐ」『中央公論』第80巻第7号 通巻933号 1965年7月特大号、164-187頁。
  13. ^ 井上清「「大亜戦争肯定論」の論理と事実」『中央公論』第80巻第9号 通巻935号 1965年9月号、142-152頁。
  14. ^ 星野芳郎「体験的大東亜戦争敗因論」『中央公論』第80巻第9号 通巻935号 1965年9月号、153-163頁。
  15. ^ 吉田満「戦争参加者の立場から」『中央公論』第80巻第9号 通巻935号 1965年9月号、164-171頁。
  16. ^ 小田実「戦後世代の視角」『中央公論』第80巻第9号 通巻935号 1965年9月号、172-179頁。
  17. ^ 吉田裕『日本人の戦争観』岩波書店、1995年7月25日 第1刷発行、ISBN 4-00-001719-5、128頁。
  18. ^ 丸川哲史「林房雄『「大東亜戦争」肯定論』-実感に即した史観-」『東アジア論〈ブックガイドシリーズ 基本の30冊〉』人文書院、2010年10月20日 初版第1刷発行、ISBN 978-4-409-00101-1、178-179頁。
  19. ^ 「宿命としての大東亜戦争――近代日本の無理が凝縮」(文藝春秋 SPECIAL 2015年春号)。浜崎 2017, pp. 66–68
  20. ^ 「大東亜戦争」は100年前から始まっていた? 意外と説得力のある「東亜百年戦争」論の真実(辻田 真佐憲) - 2ページ目 | 現代新書 | 講談社

参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク


大東亜戦争肯定論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 16:11 UTC 版)

林房雄」の記事における「大東亜戦争肯定論」の解説

詳細は「大東亜戦争肯定論」を参照 『大東亜戦争肯定論』は、『中央公論1963年昭和38年9月号から1965年昭和40年6月号にかけ連載され単行判は番町書房正・続)2冊(のち新版1巻)で刊。様々な再刊経て2001年平成13年)に夏目書房再刊普及版も刊)、夏目書房倒産2007年平成19年))により再度入手困難となった2014年平成26年)に中公文庫初め文庫再刊された。 はあえて、敗戦占領下GHQにより使用禁じられ占領終了後タブー視された「大東亜戦争」という名称を用いた。 「肯定論」の中心をなす主張は、幕末弘化年間1845年-1848年以来日本近代史を、アジア植民地化していた欧米諸国対す反撃歴史である「東亜百年戦争」と把握している点にある。そして、1945年昭和20年8月15日終わった大東亜戦争はその全過程帰結だった、としている。さらに、その過程朝鮮併合満州事変日中戦争など)における原動力経済的要因ではなくナショナリズムであったとし、それの集中点は「武装せる天皇制」だった、とも提起している。

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