近衛系
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 08:00 UTC 版)
信尋-尚嗣-基熙-家熙-家久-内前-経熙-基前-忠熙-忠房-篤麿-文麿-文隆と血統を伝え、明治期には公爵家となった。 特に、後陽成天皇の男系12世子孫にあたる近衛家第30代当主の文麿は昭和初期に3度にわたって内閣総理大臣を務めたが(第34、38・39代)、日中戦争(支那事変)を泥沼化させ(第1次近衛内閣)、日米開戦直前に政権を投出し(第2次・第3次近衛内閣)、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)後にGHQのA級戦争犯罪人指定(極東国際軍事裁判)により出頭命令を受けて自殺した。敗戦の際に旧満州(現:中国東北部)でソ連軍に捕らえられてシベリア抑留にあった文隆が1956年(昭和31年)に夫人との間に子供を儲けること無く死去した後、文麿の末娘(二女)温子の二男忠煇(旧名は護煇、父は細川護貞)を当主に迎えたことで、近衛家の本家は「皇別摂家」から外れた。 文麿の弟秀麿が分家した旧子爵近衛家と、常磐井家を相続した堯猷(忠房の子)の男系子孫が現存する。忠房の弟忠起が興した男爵水谷川家は、文麿・秀麿の弟忠麿が相続し、さらに秀麿の子忠俊が継いでいる。 小説家西木正明の著したドキュメンタリー小説『夢顔さんによろしく』では、文隆には旧満洲国領の牡丹江市の芸者である妾の東美代子との間に誕生した非嫡出子が存在したことを紹介している。この人物は元俳優で、舞台演出や災害援助など多彩な活動を続けている東隆明である。美代子の証言以外にその真偽を確認する術はないが、同書によれば美代子・隆明母子は一般には非公開の近衛家墓所で文麿・文隆の墓参をすることが許容されており、近衛家側からは文隆の実子として非公式に認められていると考えられる。また、通隆(文隆の弟)夫妻の居住する荻外荘を毎月のように訪問し、叔父甥の親交の深かったことが、隆明のブログの記事から知られる。
※この「近衛系」の解説は、「皇別摂家」の解説の一部です。
「近衛系」を含む「皇別摂家」の記事については、「皇別摂家」の概要を参照ください。
- 近衛系のページへのリンク