近衛秀麿との出逢いと別離
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1936年(昭和11年)からフリーランスとなった。同年、片岡千恵蔵プロダクションが製作した『女殺油地獄』(監督藤田潤一、配給日活)に出演、同年7月31日に公開され、同作の澤の評価は高かった。翌1937年(昭和12年)7月11日に公開された、P.C.L.映画製作所製作、東宝映画配給、伏水修監督による『白薔薇は咲けど』に出演したのを最後に、映画界を去る。このころ、澤は満34歳を迎えるが、岡との関係を清算して、アメリカ合衆国に渡る。同年7月31日、横浜港を発つその船上で、ハリウッドボウルでオーケストラの指揮をするために乗船していた指揮者で子爵の近衛秀麿と知り合う。この時、近衛は長兄の文麿から「澤蘭子にさわらんこと」と忠告を受けたが、アメリカ到着後にハリウッドで近衛と同棲を始める。1938年(昭和13年)には、ドイツの首都ベルリンで同棲生活に入る。ベルリンでは声楽とドイツ語を学ぶ傍ら、近衛子爵夫人として社交界でも活躍して、1940年(昭和15年)2月に娘を出産する。娘の名は日本と中華民国との友好を願って、曄子と命名した。第二次世界大戦後は、1945年(昭和20年)9月28日に娘を栄養失調のために5歳で失くしつつも、翌1946年(昭和21年)には帰国した。 2003年(平成15年)1月11日の23時55分に京都市下京区内の病院で老衰により逝去。享年99。晩年は同市中京区西ノ京南円町に住み、葬儀の際の喪主は志賀山一流十世家元の中村万作が務めた。
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