アメリカ到着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 15:58 UTC 版)
「ディエゴ・デ・アルマグロ」の記事における「アメリカ到着」の解説
アルマグロは、フェルナンド2世 (アラゴン王)がペドロ・アリアス・デ・アビラの指揮下に送った遠征隊により1514年6月30日に新世界に到着した。遠征隊は、ピサロを含む多くの征服者予備軍が既に到着していたパナマのサンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン市に到着した。 この時期のアルマグロの活動が詳細に語られる史料は決して多くはないが、彼が1514年から1515年の間にダリエン市を去った多くの船員たちに同伴していたことが知られており、最終的にアルマグロはダリエン市に戻り家を建て、エンコミエンダを入手し農業から生計を立てた。 アルマグロは1515年11月に最初の征服を引き受け、260人の兵士と共にダリエン市を後にし、アクラ村を設立したが、病気のため、有資格者のガスパル・デ・エスピノザへ任務を引き継がねばならなかった。 エスピノザは、新しい遠征を引き受けると決め、同年の12月にアルマグロとピサロを含む200人の兵士と共に出発した。この時ピサロは初めて船長となっている。この14カ月に及ぶ遠征の間に、アルマグロ、ピサロ、そしてエルナンド・デ・ルケは親友になった。 また、この間にアルマグロは、当時アクラを担当し、エスピノザ遠征以降の材料で船を製造し、遂に「南の海」(太平洋)を発見したバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアと友好関係を確立した。しかしながら、現在知られている史料では、アルマグロがバルボアの遠征に参加したという指摘は全くない。 アルマグロは再度バルボアの船で航海することが知られていたエスピノザの遠征に参加して、パナマ湾で行われた侵略、建設、そして征服に参加した。この遠征でのアルマグロの役割は、エスピノザが運搬を指示した現地人のリストに対する証人であったことが知られているだけである。アルマグロはパナマに新たに設立された市に残って植民を助けた。4年間、彼は新たな遠征に参加せず、彼とピザロの所有物の管理に専念した。この間アルマグロには、アナ・マルチナスという名の現地人を母として長男ディエゴ、通称「エル・モソ(El Mozo、若者)」が生まれている。
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