アメリカ北西部領土、1813年
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「米英戦争のカナダ戦線」の記事における「アメリカ北西部領土、1813年」の解説
ハルの降伏によって、ウィリアム・ハリソン将軍がアメリカ北西部領土のアメリカ軍指揮官となった。ハリソンは、イギリス軍のヘンリー・プロクター大佐がショーニー族のテカムセと組んで守るデトロイト砦の奪還に動いた。ハリソンが放った分遣隊が1813年1月22日、レーズン川沿いのフレンチタウンの戦いで敗北した。プロクターは捕虜をあまり護衛も付けずにおいたので、同盟インディアンが捕虜を攻撃して殺害することを防げなかった。およそ60名のアメリカ兵が殺害されたこの事件は「レーズン川の虐殺」という名前で知られることになった。この敗北でハリソンはデトロイト砦奪還を諦めたが、「レーズン川を忘れるな」という言葉がアメリカ軍を鼓舞させるものになった。 1813年5月、プロクターとテカムセはオハイオ州北部のメグズ砦を包囲した。アメリカ軍の援軍がインディアンに敗北したものの、砦は守られた。インディアンは包囲を続けられず分散し始めたので、プロクターとテカムセはカナダに戻るしかなかった。7月に再度メグズ砦を攻めたがこれも失敗した。プロクターとテカムセはインディアンの士気を上げるために、サンダスキー川の小さなアメリカ軍基地であるステファンソン砦を攻めたが、大きな損失を伴うことになり、オハイオ方面作戦を中止した。 エリー湖では、オリバー・ハザード・ペリー大尉の指揮するアメリカ軍が9月10日のエリー湖の湖上戦で勝利した。この決定的な勝利によって、アメリカ軍はエリー湖を支配し、負け続けだった軍の士気を上げ、イギリス軍はデトロイト砦から撤退することになった。さらに続いてハリソンはアッパー・カナダへの侵攻を試み、10月5日のテムズの戦いでの勝利に導いた。この戦いでテカムセが戦死した。テカムセの死によって、デトロイト地区でのイギリス軍とインディアンの同盟が消滅した。この後、アメリカ軍はデトロイトとアマーストバーグを支配することになった。
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