アメリカ南北戦争をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 15:10 UTC 版)
「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「アメリカ南北戦争をめぐって」の解説
1861年4月にはじまったアメリカ南北戦争についてパーマストン子爵はイギリスの厳正中立を宣言した。しかしアメリカ南部から綿花輸入の8割を頼っているイギリスにとってはアメリカ南部との関係が断たれたのは大打撃だった。 同年11月にはアメリカ連合国(南軍)が秘密裏に英仏に送ろうとした外交使節団の船トレント号をアメリカ合衆国(北軍)の艦隊が拿捕する事件が発生した(トレント号事件)。パーマストン子爵はこれに激怒し、12月5日に女王に送った覚書で、「アメリカ合衆国がイギリスの要求を拒むなら、過去最大の武力を行使し、彼らがそう簡単に忘れることはできない打撃を与えてやる」などと武力行使の可能性を示唆し始めた。 外相ラッセル伯爵(ジョン・ラッセル卿。1861年に伯爵に叙される)の作成した強硬姿勢丸出しの外交文書を読んだ女王夫妻は、このままではアメリカ合衆国と戦争になると確信し、その阻止に動いた。薨去直前のアルバート公子は、最後の力を振り絞ってこの外交文書を柔和な文体に変更し、その変更をパーマストン子爵やラッセル伯爵に受け入れさせた。このおかげで米英戦争勃発、あるいはイギリスの南北戦争介入の危機は回避されたのだった。 ところがアルバート公子の薨去後、南北戦争が長期化の様相を呈する中で、再びイギリス政界に南北戦争介入の機運が高まり始めた。1862年10月7日に蔵相グラッドストンは南軍支援と取られかねない演説をニューカッスルで行い、逆に陸相サー・ジョージ・コーンウォール・ルイス准男爵(英語版)はグラッドストンを批判して南北戦争介入は現時点で一切考えていないと演説した。しかもこの二人の演説はいずれもパーマストン子爵の許可を得ていなかった。 パーマストン子爵は閣僚たちの独断行動にイライラしながらもこの問題での発言を注意深く避けた。とりわけ南軍寄りの態度は控えるようになった。1862年9月のアンティータムの戦いでの北軍の勝利により、北軍に戦況が傾き始めたこともあるが、それ以上に北軍のエイブラハム・リンカーン大統領が奴隷制解放を大義に掲げたからである。これは奴隷貿易廃止に尽力してきたパーマストン子爵としても共感するところが多かった。最終的にパーマストン子爵は1862年11月の閣議で南北戦争不介入の方針を改めて決定した。
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