アメリカ占領時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:00 UTC 版)
ウィキソースに奄美群島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定の原文があります。 1945年(昭和20年)9月2日、アメリカ軍によって本土から分割され(1953年12月25日までの8年余り)、アメリカ国民政府の統治下に置かれた。 同年9月22日に行われた現地守備隊とアメリカ第10軍とで交わされた降伏調印式の際、日本軍守備隊はアメリカ軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「Northern Ryukyu(北部琉球)」と書かれていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて調印しなかった。これにはアメリカの第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを確認した後に降伏した。 1946年(昭和21年)2月2日、正式に日本からの行政分離が連合軍総司令部から発表され、アメリカ国民政府の命令により本土出身者が公職から追放、本土に強制送還となった。 空席となった役職には地元出身者が就任し、10月3日に臨時北部南西諸島政庁が成立した。1950年(昭和25年)11月25日に奄美群島政府に改称。 しかし、民選で選出された知事は日本復帰を公約に掲げた人物であったため(他の民政府も同様)、不快を感じたアメリカ国民政府は権限の縮小を決意し、1952年(昭和27年)4月1日には首班がアメリカ国民政府任命である琉球中央政府及び奄美地方庁を設立して民政府の権限を縮小、後に廃止した。 それらのアメリカ国民政府の政治的動きや、沖縄戦で疲弊した沖縄本島への資金集中、本土との分離により換金作物や物産の販売経路の途絶などにより経済が疲弊し飢餓の兆候さえ出てきていた奄美群島の住民は不満を増大させた。分離直後から始まっていた奄美群島祖国復帰運動は激しさを増し、日本復帰を願う署名が1951年(昭和26年)2月19日より始まり、署名は最終的に14歳以上の住民の99.8%に達し、マハトマ・ガンディーの非暴力運動にならい集落単位または自治体単位でハンガーストライキを行い、小中学生が血判状を提出する事態も発生した。復帰運動の指導者に奄美大島日本復帰協議会議長の泉芳朗や、ロシア文学者の昇曙夢などがいる。1951年8月4日、住民8000人が名瀬小学校で復帰を要求して24時間断食をおこなった。 日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を諦め、1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、奄美群島も1953年(昭和28年)8月8日のダレス声明による権利放棄を受け、12月25日に返還された。クリスマスであったことから、アメリカは「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。 アメリカ軍占領・軍政時代を「アメリカ世(あめりかゆ)」とも呼ぶ。
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