泉芳朗
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泉芳朗
いずみ ほうろう
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生年月日 | 1905年3月18日 |
出生地 | ![]() |
没年月日 | 1959年4月9日(54歳没) |
死没地 | ![]() |
出身校 | 日本大学専門部国文科中退 鹿児島県立第二師範学校卒業 (現・鹿児島大学教育学部) |
前職 | 教員 |
所属政党 | (奄美大島社会民主党→) (右派社会党→) 日本社会党 |
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当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1952年9月16日 - 1954年1月8日 |
泉 芳朗(いずみ ほうろう、1905年3月18日[1][2] - 1959年4月9日[2][3] )は、日本の政治家、詩人、教育者。名瀬市長(1期)。
経歴
鹿児島県大島郡伊仙村生まれ[1]。1924年3月、鹿児島県立第二師範学校(現・鹿児島大学教育学部)卒業[1]。卒業後は、小学校の教員として鹿児島と東京の学校を転々とした[1]。1931年、日本大学専門部国文科中退[1]。
1950年8月、奄美大島社会民主党を結成し、書記長、中央執行委員長を歴任した[1]。同年、群島議会議員選挙に同党公認で立候補したが、次点で落選した[4]。1951年2月、奄美大島復帰協議会を結成して、議長となった[1]。同年8月1日から5日まで日本復帰の断食祈願を行った[1]。その後、奄美各地で決起集会が開かれ、参加者が24時間の断食を行うなどの広がりを見せた[5]。1952年、祖国復帰郡民大会で日章旗の掲示を行った[5]。その影響で、情報官から数回取り調べを受けた[1]。
同年9月16日に名瀬市長に就任し、「祖国復帰運動」を行った[1]。そして、1953年12月25日に奄美群島は日本に復帰した[1]。1954年1月8日に市長を辞任した[6]。その後、復帰後初めて実施される衆議院議員選挙に立候補した[7]。右派社会党公認で立候補したが、定数1に対し8人が立候補し、全立候補者が法定得票数を獲得出来ず、再選挙となった[8]。再選挙では、自由党の保岡武久に敗れた[9]。1955年の第27回総選挙には立候補しなかった[10]。1958年の第28回総選挙には社会党公認で立候補したが、再び保岡に敗れた[11]。
1959年4月9日、詩集刊行のため上京中に急性肺炎により東京警察病院で死去した[3][12]。
著書
参考文献
- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第3巻、歴代知事編纂会、1983年。
- 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k 『日本の歴代市長』第3巻、771頁。
- ^ a b 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ株式会社。
- ^ a b 『詩学 16(3)(168) 12コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『名瀬市誌 下巻 73コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b “奄美復帰運動の父 泉芳朗”. 2025年5月27日閲覧。
- ^ 『市政 3(1) 41コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『名瀬市誌 下巻 217コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『選挙 : 選挙や政治に関する総合情報誌 7(5) 17コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『選挙 : 選挙や政治に関する総合情報誌 7(5) 18コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『全国総選挙公報集録 303コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第28回 277コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『かごしま文学の旅 104コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
外部リンク
- 泉芳朗のページへのリンク