特徴・情勢とは? わかりやすく解説

特徴・情勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 10:16 UTC 版)

奄美群島選挙区」の記事における「特徴・情勢」の解説

第二次世界大戦終結後1946年2月鹿児島県から分離されアメリカ合衆国の軍政統治アメリカ合衆国による沖縄統治)下に置かれ鹿児島県大島支庁管内は、鹿児島県第3区属するものとされていたが、日本国憲法施行合わせて行われた1947年4月第23回衆議院議員総選挙ではその実施が不可能だったその後奄美群島臨時北部南西諸島政庁奄美群島政府経て琉球政府統治地域となり、1952年3月2日には同政府立法院第1回総選挙行われたが、経済的困窮飢餓危機にも直面した住民は「島ぐるみ闘争」と呼ばれる強力な日本復帰運動展開し1953年12月25日日本本土復帰日本政府による統治権復活)が実現した。この本土復帰準備するために奄美群島復帰に伴う暫定措置法制定され暫定的に奄美群島区として定数1の選挙区がおかれた。1925年普通選挙法制定以後中選挙区制行われていた当時日本衆議院議員総選挙では唯一の1人区であり、奄美群島区のみ小選挙区制行われるになった奄美群島区では下表のように激し選挙繰り広げられ米軍統治前では最後となる1942年第21回総選挙鹿児島県第3区から当選していた宗前清再選挙逆転して最初当選者となった保岡武久と、1972年第33回総選挙でこの父の地盤引き継いだ保岡興治はこの選挙区での中心的存在となった。これに対し参議院議員から転じた伊東隆治や、選挙区唯一の市だった名瀬市市長だった豊永光らが同じ保守系候補として挑み、特に伊東1968年死去まで議席維持した豊の引退後保岡興治による実質的な無風」状態がしばらく続いたが、1983年第37回総選挙徳之島出身徳田虎雄出馬すると、一転して保徳戦争」と呼ばれる全国有数の大激戦区となった。父の代から農漁業中心とした手厚い保守地盤持ち与党である自由民主党公認候補、特に当時権勢誇った田中派所属議員として中央との強いつながりを示す保岡と、自身理事長務め徳洲会グループの展開離島での医療体制大きく改善し地域住民から強い支持を得ながら保守系無所属として保岡挑戦する徳田対決壮絶なものとなり、買収中傷脅迫などの選挙違反選挙結果予想した賭博による逮捕者続出し、「死人が出る」とまで言われるほどの汚い選挙戦が行われる場所として知られていた。これは町村長町村議会選挙にまで及び、島は保岡派と徳田派で二分され、お互い尾行見張り小屋設置を行う事態となったこのため1980年代後半から始められ1994年成立政治改革四法に至る小選挙区制導入議論の際には、「選挙区縮小による選挙費用縮小」「得票数過半数を得るための広範な民意体現特定の利権集団排除」という小選挙区導入の目的につき、反対派からこの奄美群島選挙区引き合い出され、その不可能がな実例とされた。これに対し保岡興治本人は、定数1であるにも関わらず政党候補者一本化せず、保守同士対決容認している、つまり「定数1の中選挙区として運用している」ことが問題根源であるとし、小選挙区導入賛成論陣張った。 この激戦埋没して左派革新政党議席奪えなかった。本土復帰時には左右分裂中だった日本社会党は、右派社会党1952年名瀬市長に当選していた泉芳朗擁立した。泉は奄美大島日本復帰協議会初代議長として非暴力主義による日本復帰運動主導した実績持ち最初選挙では2位につけたが、再選挙敗れたその後の各選挙でも社会党候補当選できず、1976年第34回総選挙以降社会党公認候補擁立見送ったアメリカ統治時代組織され非合法奄美共産党吸収した日本共産党は、復帰時の選挙中村安太郎奄美共産党合法部門である奄美大島社会民主党から、次の1955年第27回総選挙では共産党自身から立候補させたが、いずれも最下位終わった1960年第29回総選挙からは連続して公認候補立て保岡興治との一騎討ちとなった第36回総選挙島長国積は1万5千票近く獲得したが、徳田出馬激戦となった次の第37回総選挙では得票数得票率共に10分の1以下となった民社党公明党中道2党は奄美群島選挙区での公認擁立一度も行わなかった。 激し選挙戦知られ奄美群島選挙区だったが、離島という特性上、選挙区内の人口は少なかったこのため1992年公職選挙法改正行われた「9増10減」による「定数是正」の際、奄美群島選挙区単独維持する事は不可能となり、その廃止決まったその際統合先は、奄美群島属している大隅国である鹿児島県東部や種子島屋久島などで構成され1947年公職選挙法制定時には将来帰属明記されていた鹿児島県第3区ではなく各島との交通網整備され県庁所在地鹿児島市を含む鹿児島県第1区となり、「保徳戦争」もそのまま持ち越されるになった。 なお、戦前小選挙区制実施され第1回1890年) - 第6回総選挙1898年)では本選挙区と同一区域鹿児島県7区第14回1920年) - 第15回総選挙1924年)では鹿児島県8区としていた。

※この「特徴・情勢」の解説は、「奄美群島選挙区」の解説の一部です。
「特徴・情勢」を含む「奄美群島選挙区」の記事については、「奄美群島選挙区」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「特徴・情勢」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「特徴・情勢」の関連用語

特徴・情勢のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



特徴・情勢のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの奄美群島選挙区 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS