復帰運動と沖縄人民党との合同
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「奄美共産党」の記事における「復帰運動と沖縄人民党との合同」の解説
1951年2月13日、社会民主党の呼びかけで「帰属問題対策協議会」を開催。32団体70余人が参集する。請願運動を柱とし、「信託統治反対」「条約三条撤廃、即時完全復帰」の署名を開始する。実践組織として復帰協議会の結成が提案される。2月14日、帰属問題対策協議会の議論を経て「日本復帰協議会」が結成される。議長に泉芳郎が就任。趣意書の発表と署名運動の展開を決定。(泉の説得にあたったのは共産党の中村安太郎だった。中村は「今の奄美にレーニンや毛沢東はいらない。民族解放のためにはガンジーが必要だ」と口説いたという) 5月29日、名瀬市議会の補欠選挙が施行される。社民党が協和党関係者を抑えて3名が当選。 7月13日、復帰協は第1回市民総決起大会を開催。名瀬小学校校庭に約2万人を集める。集会は「信託統治反対」「日本復帰貫徹」を決議。軍政府は名瀬市民総決起大会の中止を命令。バーロー民政官が乗り込み解散を要求。プラカードの撤去と小学生を退場させることで双方が折りあう。7月19日、同じく名瀬小学校校庭で第1回日本復帰郡民総決起大会が開かれ、1万数千人が参加する。奄連青が提出した動議、①首相へ抗議文を提出、②信託統治に絶対反対、③復帰陳情団の派遣、④ハンストの実施などを決議した。7月31日、民政府は「復帰運動は政治運動ではない」と認める指令を発する。 8月1日、復帰協の泉芳朗議長が名瀬市の高千穂神社で120時間の断食に入る。これに呼応して三方・古仁屋・住用・西方・宇検・早町など各町村が相次いで断食を決行。学童も断食に参加する。8月4日、断食闘争1万人集会を決行。参加者は集会後「日本復帰の歌」を歌いながら泉に合流して高千穂の森でかがり火をたいて「民族分離反対」を祈願し断食に入る。午後10時から5日夕刻にかけて、映画館・料理屋・飲食店・商店などが一斉休業。8月6日、日本復帰陳情員を全市町村から募り、密航陳情団が極秘裏に編成される。市町村代表11人が高千穂神社境内で団を編成。2、3人ずつの班行動をとり、東京の指定場所で落ち合うこととした。 8月16日、陳情団のひとりとして参加した松江謙志が、神奈川県委員会を通して党本部に連絡。「奄美共産党の組織を正式に日本共産党琉球地方委員会の奄美地区委員会とする」よう求める。方針は承認されたが、当時「50年問題」の分裂と混乱状態にあった党中央にはまだ正式機関としての指導連絡の責任者と機構はなく、奄美出身の党員を通じての連絡が続けられる。(このあとは「奄美共産党」ではなく「日本共産党奄美地区委員会」の名称を用いる) 9月9日、サンフランシスコ講和条約が締結される。沖縄・奄美・小笠原諸島は「本土」の独立と引き換えに米軍の恒久支配地域に入る。郡民は戸毎に弔旗を掲揚し抗議する。復帰協・連青は掲げてきた復帰運動①信託統治反対、②講和条約3条撤廃・全面講和、③完全日本復帰、のうち②については条約締結により、事実上きわめて実現困難となった。9月13日に開催された復帰協の臨時代議員会では、条約調印後の運動の進め方について討議。三原則路線に対して異議が出るも運動継続では一致。連教組は「信託統治絶対反対」のスローガンを降ろすことを要求。9月22日に復帰協、全郡町村支部長会議が開かれる。社会民主党・青年団は「条約3条撤廃による完全日本復帰」を堅持。連合教職員組合の現実論と対立するが押し切る。しかし、泉議長と盛副議長からは辞任の申し出あった。 9月、奄美共産党は講和条約締結に伴い、奄美社会民主党を発展的に解消。沖縄人民党と合同する方針を決定。同時に沖縄にも共産党を建設する方向を確認。10月13日、社民党第3回大会が開かれる。「復帰運動三原則」の維持を再確認。委員長に佐野喜島、書記長に大山光二を選出。泉芳朗は復帰協議会に専念するため辞任。 奄美地方の日本復帰後、奄美共産党は日本共産党奄美地区委員会となる。
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