レーズン川の虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/25 15:50 UTC 版)
「フレンチタウンの戦い」の記事における「レーズン川の虐殺」の解説
アメリカ軍降伏の直後に、ケンタッキー州出身兵の中にはその士官と議論になり、その降伏が敵の手によっていずれにしても死に繋がることを怖れ「戦場で死んだ方が良い」という者がいた。しかし、降伏の直後に戦闘は止んだ。当初少なくとも300名のアメリカ兵が殺されたと推計され、500名以上が捕虜になった。捕虜の数が多かったのでプロクターはどのように対処してよいか分からず、ウィンチェスター敗北の報せがウィリアム・ハリソンに届けばより強力な部隊を送って来るであろう場合に備えて、急ぎ退却したいと考えた。負傷していない捕虜は歩いて北に進ませ、凍ったデトロイト川を渡ってモルデン砦に行かせれば良かったが、負傷して歩けない捕虜はフレンチタウンに残された。プロクターは負傷したアメリカ兵捕虜を運ぶために橇が到着するまでもう1日待ったが、アメリカ軍の大軍が南から進んできていることを怖れた。 しかし1月23日朝、インディアが負傷したアメリカ兵からの略奪を始めた。歩くことのできるアメリカ兵はモルデン砦に向かって行進を始めていたが、重傷の者の多くは後に残され、単に殺されるだけだった。負傷兵を収容していた建物に火が付けられた。燃える建物から逃げ出せた者はさらに逃げようとする間に殺され、動けない者は火事の中で死んだ。捕虜が北のデトロイト砦に向かって行進している間に、それに付いていけなくなった者も容赦なく殺された。生存者の証言では、「道には数マイルにわたって切り裂かれた死体が散乱した」となっている。負傷後にインディアンに殺された者の数は30名とも100名とも推計されている。 このアメリカ兵負傷者の不必要な殺人は後にレーズン川の虐殺と呼ばれるようになった。フレンチタウンの戦いで降伏した後に殺された者の数は、正確には分かっていない。虐殺そのものが実際の戦闘結果を覆い隠すほどにアメリカ人は憤慨し、レーズン川の虐殺の報せは国中に広まった。特にフレンチタウンの戦いとその後の虐殺で多くの兵士が倒れたケンタッキー州では衝撃的な報せとなった。「レーズン川を覚えていろ」という鬨の声が上がり、この戦争での従軍を申し出るケンタッキー州民を増やすことになった。
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