突破戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/25 06:16 UTC 版)
予定時間を大幅に過ぎてはいたが、ザクセン軍は渡河に成功した。橋が断たれるまでに約1万4千の兵士が右岸に渡ることができ、残りはケーニヒシュタインに逃げ込むか、もしくは捕虜となった。ザクセン軍の旧陣地はプロイセン軍に占領されたがケーニヒシュタインは健在で、アウグストとブリュールは軍の渡河の際にもケーニヒシュタインに滞在していて、ルトフスキーによって最終的な突破が行われるのを待っていた。 一方右岸に立つルトフスキーは、封鎖の突破は実質不可能であるという現実に直面していた。ザクセン軍の渡河した先は左右両翼をエルベ川で塞がれた狭い突出部で、しかも正面にはリーリエンシュタインという山があって彼らの行く手を塞いでいた。リーリエンシュタインの先にはヴァルタースドルフ村があり、ここを越えることで突出部を抜け出ることができる。が、その先にはやはり山が横たわり、その手前ではラクス川が険しい谷を形成していて、突破のさらなる障害となっていた。山を避け、東に谷を越えるとラートマンスドルフ村があり、ここを過ぎてようやくブラウン軍の先鋒と会合することができるのだった。 プロイセン軍は、リーリエンシュタインとブラウンのいるリヒテンハインのあいだに二重三重の封鎖線を展開してザクセン軍の行く手を遮っていた。ザクセン軍のすぐ目の前には、レッツォウの5個歩兵大隊が、リーリエンシュタインをその内に含む陣地を構築して突出部を封鎖し、その背後には6個歩兵大隊と5個騎兵中隊が置かれて第二線を形成していた。仮にこれらを突破して、ラクスの谷川を越えたとしても、その東にはブラウン軍と対峙しているレストヴィッツの11個歩兵大隊と15個騎兵中隊が控えているのだった。つまるところ、ザクセン軍は進退窮まっていた。 三方をエルベ川に囲まれ、残る一方をリーリエンシュタインに阻まれたザクセン軍は、とりあえずリーリエンシュタインの手前にあるエーベンハイトの集落を中心にして軍を休止させた。しかしただでさえ狭い空間であるところ、沿岸部はエルベ川への傾斜がきつく、さらに河畔林が生い茂っていたから実際のスペースはさらに限定され、満足に兵を展開させる余裕もなかった。13日の午後からは再び雨が降り出して、兵士たちは雨を凌ぐこともできず、さらに一切の食糧もなく、混乱した状態のまま放置された。渡河中に追撃を受けたことから、ザクセン軍は急いで兵を渡すためにあらゆる種類の物資を放棄せねばならず、結果、右岸に渡ったザクセン軍は、もともと食糧を欠いていたところに加えて、弾薬もなければテントもない、軍として丸裸の状態に置かれていた。 このころリヒテンハインでは、プロイセン軍陣地の向こう側から漏れてくる戦闘音を聞きつけてブラウンも早朝より注意を払っていたが、オーストリア軍はザクセン軍の渡河の様子を実際に視界に収めることはできない地形におり、定められた合図もなかったので兵を動かさずに様子を見ていた。しばらくするとブリュールから、翌14日の朝に突破を試みるのでもう1日待ってくれと連絡が来て、結局この日も戦闘を見送った。 ブラウンの我慢も限界に来ていた。今はザクセン軍の包囲に専念しているが、この場ではオーストリア軍よりずっと優勢なプロイセン軍が、もし攻勢に出れば自軍まで包囲されかねず、敵との睨み合いにブラウンは非常な緊張を強いられていた。外国軍を救援に来た末に自軍まで捕虜にされては目も当てられず、自軍の安全な離脱が今やブラウンの課題だった。それでなくてもザクセンに急行してきたオーストリア軍には糧食の余裕がなく、2日も待機し続けるのは本来想定外で、ブラウンはすでに撤退の方針を決めていた。ブラウンはザクセン軍に、14日午前9時まで待つ、と返答し、それまでにザクセン軍が突破攻撃を開始すれば自軍も攻撃に参加して封鎖線の挟撃を試みるが、合図がないときには、自軍を守るためにベーメンに撤退せざるを得ないと通告した。 14日、やはり雨の降る中、ルトフスキーはケーニヒシュタインのアウグストから、何としてもプロイセン軍を攻撃、突破せよと命じられた。エルベ川に挟まれ、リーリエンシュタインに阻まれたザクセン軍が実際に突破を図るとなると、守備の固められたレッツォウのプロイセン軍陣地に真正面から突撃するしか方法がなかった。しかしリーリエンシュタインの両側に設けられたプロイセン軍の陣地は、南北どちら側にしてもすぐエルベ川に達してしまうから正面幅がごく僅かしかなく、その狭い幅に砲が置かれ、障害が設けられてザクセン軍を待ち構えていた。そしてプロイセン軍の陣地はこれだけではなく背後に重なっているのだった。翻ってザクセン軍の状態を見れば、兵士は疲労し、1日以上なにも口にせず、ずぶ濡れで凍え、大砲はごくわずか、おまけに銃砲を問わず弾薬の予備が無かった。アウグストはケーニヒシュタインからブラウンに合図の大砲を撃ったが、風と雨の音に遮られて、すでに撤退準備中だったブラウンの軍には聞こえなかった。そしてルトフスキーの攻撃は実施されなかった。 ルトフスキーは、攻撃は実行不可能であるとアウグストに報告したが、アウグストもブリュールも頑迷で、攻撃を強要した。アウグストは12時にもう一度合図の大砲を撃ったが、ブラウンはもう陣を払った後だった。ルトフスキーはエーベンハイトのあばら家で将官会議を開いて、降伏以外に道なしとの結論を出した。そしてアウグストに、プロイセン軍陣地への攻撃は効果を得ず、ただ兵士たちの多大な流血と虐殺をもたらすだけだと説明したが、アウグストは聞かず、ケーニヒシュタインから、ルトフスキーとその将軍たちはプロイセン軍に攻撃を実施し、「その兵たちと同じように死んでくれ」と書き送って来た。ルトフスキーは再度将官会議を開くと、全会一致で、攻撃は兵を無駄死にさせるだけであり、兵を救うためには降伏しかないとの結論を下して、三度アウグストに報告し、アウグストもついに承諾せざるを得なかった。ルトフスキーはプロイセン軍に降伏前提の休戦を申し入れ、ヴィンターフェルトが応対して、降伏の交渉は翌15日から行うことにし、ルトフスキーの求めに応じてさしあたり荷馬車一杯のパンを支給した。 このころブラウンはすでにザクセン軍の救援を断念してベーメンに撤退中だった。ブラウンは、ザクセン軍が降伏したらプロイセン軍がすぐにも自軍を捉えようとするであろうことを良く理解しており、いたずらに撤退を遅らせるようなことはしなかった。プロイセン軍からはヴァルネリーのフザール部隊が追撃をかけてきてオーストリア軍の後衛を襲ったが、ブラウンはよく指揮して損害を最小限にとどめ、10月19日にブディンに帰還した。
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