係争地と国境画定問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
「ノモンハン事件」の記事における「係争地と国境画定問題」の解説
モンゴル側は1734年以来外蒙古と内蒙古の境界をなしてきた、ハルハ河東方約20キロの低い稜線上の線を国境として主張。満洲国はハルハ河を境界線として主張した。 満洲国、日本側の主張する国境であるハルハ河からモンゴル・ソ連側主張の国境線までは、草原と砂漠である。土地利用は遊牧のみであり、国境管理はほぼ不可能で、付近の遊牧民は自由に国境を越えていた。係争地となった領域は、従来、ダヤン・ハーンの第七子ゲレセンジェの系統を引くチェチェン・ハーン部の左翼前旗や中右翼旗などハルハ系集団の牧地であった。この地が行政区画されたのは1730年代で、清朝はモンゴル系、ツングース系集団を旧バルガ、新バルガの二つのホショー(旗)に組織し、隣接するフルンボイル草原(中国語版)に配置し、1734年(雍正12年)、理藩院尚書(中国語版)ジャグドンによりハルハと、隣接する新バルガの牧地の境界が定められ、その境界線上にオボーが設置された。本事件においてモンゴル側が主張した国境は、この境界を踏襲したものであった。
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