係争地の地誌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 19:42 UTC 版)
シベリア東南、アムール川(黒竜江)流域が一貫して中心となる係争地である。それとともに、スタノヴォイ山脈南部のザバイカル地方も、ブリヤート人やハルハ部のモンゴル人を巻き込んだ争いの場となった。水文学では、北極圏へ流れ込む川と南のアムール川へ流れ込む川はスタノヴォイ山脈(大興安嶺)で分かれる。生態学的には、この地域はタイガの最東南に位置し、肥沃な地域を含んでいた。 歴史的には、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この地域は紀元7世紀頃から中華-満州文化圏の北端[要出典]であった。数々の中華王朝が、その盛期に領有を主張し、砦を築き朝貢を集めてきた。モンゴル人による元朝は、黒竜江河口近くのアムグン川下降に東征元帥府を設置した。明国の奴児干城(ヌルゲン城またはヌルガン城)都指揮使司によりアムール北岸の黒河に砦が築かれ、今日のトィル(ニコラエフスク・ナ・アムーレ上流に位置)に政庁が置かれた。 上記のような主張の一方、東シベリアは、多数の民族の活動場所でもあった。アムール河流域の南側には、ナーナイ族、オロチ族、ウリチ族、ウデヘ族、ネギダール族、ウイルタ族(オロッコ)族、ニヴフ族、アイヌがいた。彼らは漁撈や狩猟文化のほか、紀元前2000年から前1000年ころから、既に鉄器を保有し、農耕も行っていた。アムール河の北には、エウェン族が住んでいた。狩猟民のエヴェンキ族はアムール河北からエニセイ川以西まで移動しながら暮らしていた。
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