東征元帥府(元代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 06:23 UTC 版)
「東征元帥府」も参照 モンゴル人による建国以来、度重なる対外遠征によってユーラシア大陸の大部分を征服するに至ったモンゴル帝国は女真人の金朝を滅ぼし、遼陽行省を設置した。遼陽行省の管轄範囲は、北辺が黒竜江下流、西辺が遼河付近、南辺が長城(山海関も参照)、東辺が朝鮮半島北部(北緯38度付近)と推定される という。時期は不明であるが、13世紀半ば以降、大元ウルスは黒竜江下流域にも進出し金朝時代と同様にヌルガンの地に黒竜江下流一帯を管轄する遼陽行省の下部組織「東征元帥府」を設置した。 後述する明代のヌルガン郡司と違い、恒久的施設として整備され、実際に長期間に渡って運用された点に現代の東征元帥府の特色があると言える。大元ウルスの設置した東征元帥府には統治機関としての役目のみならず、 流刑地、屯田地としての役目もあり、この地域を往来する官吏のために、交通路の整備もおこなったとする見解もある。ただし、物資の生産地である関内からは遠く、自給できない衣食の輸送費が嵩む問題を抱えていた。1328年の「天暦の内乱」後、元朝の勢力は衰え、東征元帥府周辺でも1343年に反乱が勃発。さらに1359年に紅巾軍の遼東侵入により、混乱に陥った。元と明の抗争の後、元は北走(北元)。東征元帥府も14世紀の1368年から1388年の間に消滅した。 周辺諸民族との関係 『遼東史略』に「(遼東は)また東北はヌルガンに至り、海を渡るとギレミ(ニヴフ)などの諸々の夷地があり、全て支配下に属している」とあるように大元ウルスの影響は黒竜江下流域にも及んでおり、この地方の冊封体制の管轄を司っていたのが東征元帥府であったと考えられ、黒竜江下流や海外の樺太北部に住むニヴフなどの諸民族との外交関係の管轄も行った。また『高麗史』などの記述によると、1287年に金朝の後継国である東真から「骨鬼国」の将軍が高麗に訪れたとあり、この「骨鬼国」もヌルガン城の影響下にあったのではないかと推測する意見もある。ちなみに「骨鬼国(クイ国)」の名称は、大陸のトゥングース系民族が樺太のアイヌ民族をクギもしくはクイKuγi/Kuyi/Kuiと呼称するのに由来するという。 また、1264年から1308年の期間、当時モンゴルの冊封体制下にあり樺太北部に住む吉里迷(ギレミ、吉烈滅、ニヴフ)の要請を受けモンゴルの樺太侵攻を複数回実施、樺太南部に住む「骨嵬(クイ、アイヌ民族)」や「亦里于(イリウ)」と40年以上も戦った後和睦し、交易した。
※この「東征元帥府(元代)」の解説は、「ヌルガン」の解説の一部です。
「東征元帥府(元代)」を含む「ヌルガン」の記事については、「ヌルガン」の概要を参照ください。
- 東征元帥府のページへのリンク