東廻海運の整備
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1670年(寛文11年)、江戸幕府は河村瑞賢(江戸初期の事業家)に航路の整備を命じ、難所とされた野島崎沖を越えるための良風を待つ東廻海運の避難港として整備された。幕府の城米船や諸藩の廻米船が難風を避けて入港する小湊浦(小湊漁港の前身)には番所・浦役人が置かれ、 諸藩の廻船番小屋や船宿も設けられた。誕生寺所蔵の『誕生寺領山海由緒書』によると、1699年(元禄12年)3月に米沢藩上杉氏の船手役人小泉弥左衛門が小湊に来て、名主久左衛門に藩の廻船役所建設の申し込みを行ったと記録されている。同由緒書の1654年(承応3年)10月の項に地船22艘、旅船49艘と記録されており、小湊浦や内浦湾沖で操業していたとされている。 1852年(嘉永5年)には歌川広重が小湊へ旅行をしており、その際の実景写生をもとに『六十余州名所図会 安房 小湊 内浦』を描かれたと考えられている。峠から望む内浦湾のほか、大きな屋根を持つ誕生寺も描かれている。
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