東征の挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 05:45 UTC 版)
九州をほぼ南朝一色に染め上げた懐良親王と武光は、その勢いをもって東上を決意。折りしも都では将軍・義詮が没し、幼少の足利義満がその跡を継いだため、これを好機と見た征西府は、正平23年/応安元年(1368年)2月に東征の軍を起こして長門・周防方面へ進軍を開始した。全国各地で南朝方が劣勢に立たされる中、九州で圧倒的優位を誇る征西府は、まさに南朝最後の希望であり、『北肥戦誌』や『鎮西要略』によると、この時の東征軍は菊池氏・原田氏・伊東氏・秋月氏・島津氏・三原氏・草野氏・松浦氏・星野氏・平戸氏・千葉氏・大村氏・山鹿氏などの九州の有力諸氏を従えた7万騎と号する大軍であったとされる。 しかしこの南軍の起死回生を狙った一大計画は、征西府軍が瀬戸内地方の制海権を完全に確保し切れていなかった事もあって、北朝方に転じていた大内氏により下関付近で進軍を阻まれ、逆に大損害を被る敗北を喫してしまった。結局これによって征西府軍による東征計画は敢え無く失敗に終わり、大宰府へ敗走した懐良親王と武光は、なおも九州における征西府の勢威を維持し続けたものの、この東征失敗以降、征西府は徐々に衰退していく事となった。
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