東征否定説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:35 UTC 版)
西谷正は、北部九州が近畿を征服したとは考えにくいとする。主な理由として、近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早いとする。方形周溝墓は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓など)は近畿には普及していないなど。しかし実際には鉄鏃は魏志倭人伝の邪馬台国に存在したとされ実際にも北九州から多数出土しているが、畿内では3世紀ごろの鉄鏃は殆ど出土していないことから、この説は根拠が乏しい。 邪馬台国の時代の庄内式土器の移動に関する研究から、近畿や吉備の人々の九州への移動は確認できるが、逆にこの時期(3世紀)の九州の土器が近畿および吉備に移動した例はなく、邪馬台国の時代の九州から近畿への集団移住は可能性が低い。しかし、神武東征が魏志倭人伝に見える邪馬台国の時代の出来事であるとは限らないし、肯定説の全てが国家規模での東遷ではないことに留意される。 原島礼二は、大和朝廷の南九州支配は、推古朝から記紀の完成にかけての時期に本格化したと想定され、608年の隋の琉球侵攻に対して、琉球と隣接する南九州の領土権をヤマト王権が主張する為に説話が形成されたとする。
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