肯定説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 00:07 UTC 版)
肯定説は、そもそも、日本法における判決理由が法的拘束力を有さないのであるから、レイシオ・デシデンダイの、もう1つの重要な要素である「判決文の中の判決理由において示された裁判所(裁判官)の意見の内、判決の主文の直接の理由であ(中略)る判決理由の核心部分」という点のみに着目し、これに含まれない部分を「傍論」と呼ぶ。この考え方に基づけば、当然、日本法においても「傍論」が存在する、という帰結になる。 斎藤寿郎は、判決理由が事件の結論に到達するために必要不可欠な直接の「主たる理由の部分」と「その余の部分」とに分けられ、日本において後者が「傍論」と呼ばれるとし、最高裁判所の判例が上述(#効果(拘束力))のような事実上の拘束力をもつのは、「主たる理由の部分」であり、「傍論」は含まれないと解すべきである、としている。 上述の法律が規定する「判例」に関連し、中野次雄は自著の中で、判例を法だと考える英国では傍論という区別は大変に重要であるが、日本においてもそれは同じであるとし、その理由として、第一に、刑事事件の「上告理由」としての「判例違反」があるかどうか、また民刑を問わず「判例変更」手続をとる必要があるかどうかという点と、第二に、もしそれが変更されないことの相当程度保障されている「判例」であるならば、一般の裁判官としてはこれを尊重しなければならないが、単なる「傍論」であればそういう力をもたないという点でこの区別が重要であるとしている。また、事件の論点についての判断でない説示は明らかに「傍論」であり、そのことにはだれも異論がないとしている。そして、この判決理由の内の「傍論」について、「その裁判理由をより理解させ、その説得力を強めるために書かれるのが通例で、いうまでもなく判例のような拘束力を持たないが、将来の判例を予測する資料としては意味をもつ場合があることに注意する必要がある。傍論といえども大法廷または小法廷の裁判官の全員一致もしくは多数の意見として表示されたものである。そして、それは将来他の事件を裁判する際にはそれ自体判例となるか少なくとも判例を生み出すものを含んでいることが少なくない。それには、判例のようなあとで変更されないという制度的保障はないが、その意見に加わった裁判官がその見解を変えることは少ないだろうと考えると、それもまたその程度において 将来の判例を予測する材料だということができよう…。その意味で、傍論にも1つのはたらきが認められるのである。」と述べている。
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肯定説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:43 UTC 版)
憲法が国民の信頼を失って守られなくなった場合、法規範としてそれはもはや法とはいえなくなるため、一定の条件を設けた上で、それが満たされた場合には憲法の変遷は認められる。
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