イシハ
イシハ
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イシハ(女真文:[i ʃï xa][1][2]、モンゴル語:ᠢᠰᠢᠬᠠ[Isiq-a]、漢字表記:亦失哈 [yìshīhā]、生没年不詳)は、15世紀初頭に明朝に仕えた海西女直出身の宦官。永楽年間から宣徳年間にかけて黒竜江河口付近のヌルガンに7度にわたって遠征したことで知られる。
- ^ 金啓孮編著『女真文辞典』文物出版社、1984年、94頁
- ^ 奕賡の『清語人名訳漢』によると満州語で「松鴨」を意味するという。
- ^ 僅かに巻304列伝192に一部言及されるのみである(『明史』巻304列伝192宦官伝1,「其他宦者若跛児干・亦失哈・喜寧・韋力転・牛玉之属、率凶狡。……亦失哈鎮遼東。敵犯広寧、亦失哈禁官軍勿出撃。百戸施帯児降敵、為脱脱不花通於亦失哈。正統十四年冬、帯児逃帰、巡按御史劉孜並劾亦失哈及他不法事。景帝命誅帯児、而置亦失哈不問」)
- ^ 江嶋(1999), p. 66-68.
- ^ 江嶋(1999), p. 68.
- ^ 和田(1955), p. 339-341.
- ^ 『明太宗実録』永楽七年閏四月七日(己酉)「設奴児干都指揮使司。初頭目忽剌冬奴等来朝、已立衛。至是、復奏其地衝要、宜立元帥府。故置都司、以東寧衛指揮康旺為都指揮同知、千戸王肇舟等為都指揮僉事、統属其衆。歳貢海青等物、仍設狗站遞送」
- ^ 同年には丘福率いるモンゴル遠征軍も組織されており、モンゴリアとマンチュリアへの遠征は連動するものであったと考えられている。なお、丘福の遠征軍はモンゴル軍に大敗してしまったため、これを切っ掛けとして永楽帝によるモンゴリア親征が始まる。
- ^ 『勅修奴児干永寧寺記』「永楽九年春特遣内官亦失哈等率官軍一千餘人・巨船二十五艘復至其国、開設奴児干都司……依土立興衛所、收集旧部人民、使之自相統属」
- ^ 塚瀬進 2014, p. 70-71.
- ^ 『明太宗実録』永楽十年八月十四日(丙寅)「奴児干・乞里迷・伏里其・兀剌・嚢哈児・古魯・失都哈・兀失奚等処女直野人頭目准土奴・塔失等百七十八人来朝、貢方物。置只児蛮・兀剌・順民・嚢哈児・古魯・満涇・哈児蛮・塔亭・也孫倫・可木・弗思木十一衛、命准土奴等為指揮千百戸賜誥印冠帯襲衣及鈔幣、有差」
- ^ 『明太宗実録』永楽十年十月十五日(丁卯)「置遼東境外満涇等四十五站。勅其提領那可孟常等曰、朝廷設奴児干都司并各衛、凡使命往来所経之地。旧有站赤者、復設。各站頭目悉恭命毋怠」
- ^ 『勅修奴児干永寧寺記』「十年冬、天子復命内官亦失哈等載至其国。自海西抵奴児干及海外苦夷諸民、賜男婦以衣服器用、給以穀米、宴以酒食、皆踴躍歓忻、無一人梗化不率者。上復以金銀等物為択地而建寺、柔化斯民……」
- ^ 『朝鮮実録』太宗十四年二月庚戌「永吉道都安撫使李従茂報、自鏡城二十五日程、羅毛羅住兀良哈指揮阿老管下千戸毛下也進言曰、女直都事也羅介率中原数多軍人、於前年正月、云屯隠出来、自正月至四月造大船及汲水小船、各二百三十艘、載軍人泛自松渇江、歴愁下江、向愁濱江、将築巨陽城・慶源・薰春城、実之以吾都里・兀良哈。上曰、此人等毎以如此事来告。上国之兵雖来、豈以船過鉄嶺乎。此必虚語也。抑或中原辺将造船於此地耳」
- ^ 江嶋(1999), p. 79.
- ^ 『勅修奴児干永寧寺記』「十一年秋、卜奴児干西有站満径、站之左山高而秀麗、先是已建観音堂於其上、今造寺塑仏、形勢優雅、粲然可観……」
- ^ 中村2008,52頁
- ^ 『重修永寧寺記』「……洪武間、遣使至其国而未通。永楽中、上命内官亦失哈等□、鋭駕大航、五至其国、撫諭慰安、設奴児干都司」
- ^ 江嶋(1999), p. 63.
- ^ 『明宣宗実録』洪熙元年十一月二十日(乙卯)「勅遼東都司、賜隨内官亦失哈等往奴児干官軍一千五十人鈔有差」
- ^ 江嶋(1999), p. 78-79.
- ^ 『重修永寧寺記』「宣徳初、復遣太監亦失哈部衆再至、以当念聖天子与天同体、明如日月、仁徳之大、恩沢之渥、諭撫之其民悦服。且整飾仏寺、大会而還」
- ^ 『明宣宗実録』宣徳二年八月五日(庚申)「遼東都司都指揮同知康旺・考郎兀等衛指揮僉事克徹・屯河等衛指揮僉事不顔禿・遼東東寧衛指揮金声等来朝、進馬及方物」
- ^ 『明宣宗実録』宣徳二年八月二十一日(丙子)「命奴児干等処来朝野人女直頭目者得兀為可令河衛指揮僉事、儹卜為弗提衛指揮僉事、倶襲父職。斡冬哈僧住可・忙哈帖木児・哈傅剌察等倶為副千戸……賜賚有差」
- ^ 『明宣宗実録』宣徳二年八月二十三日(戊寅)「賜禿都河等衛指揮僉事脱你哥・福餘衛舎人勤克・奴児干都司都指揮同知康旺・考郎兀等衛指揮僉事克徹・屯河等衛指揮僉事不顔禿・東寧等衛指揮金声等鈔綵幣表裏有差」
- ^ 『明宣宗実録』宣徳二年九月二十日(乙巳)「行在戸部尚書夏原吉言……又言、差往奴児干官軍三千人、人給行糧七石総二万一千石。宜循例於遼東都司支給、従之」
- ^ 『明宣宗実録』宣徳四年十二月二十日(壬辰)「召内官亦失哈等還。初命亦失哈等率官軍往奴児干、先於松花江造船運糧、所費良重。上聞之諭行在工部臣曰、造船不易、使遠方無益、徒以此煩擾軍民。遂勅総兵官都督巫凱。凡亦失哈所齎頒賜外夷叚匹等物悉於遼東官庫寄貯、命亦失哈等回京」
- ^ 江嶋(1999), p. 85-87.
- ^ 『明宣宗実録』宣徳五年八月二日(庚午)「勅都指揮康旺・王肇舟・佟答剌哈仍往奴児干都司撫恤軍」
- ^ 『明宣宗実録』宣徳五年十一月十三日(庚戌)「罷松花江造船之役。初命遼東運糧造船於松花江、遣使往奴児干之地招諭至是総兵官都督巫凱奏虜寇犯辺。上曰虜覘知辺実、故来鈔掠、命悉罷之」
- ^ 『明宣宗実録』宣徳七年五月九日(丙寅)「以松花江造船軍士多未還、勅海西地面都指揮塔失納答野人指揮頭目葛郎哥納等曰、比遣中官亦失哈等、往使奴児干等処、令都指揮劉清領軍松花江造船運糧。今各官還朝而軍士未還者五百餘人、朕以爾等帰心朝廷、野人女直亦遵法度未必誘引蔵匿、勅至即為尋究。遣人送遼東総兵官処、庶見爾等帰向之誠」
- ^ 『重修永寧寺記』「七年、上命太監亦失哈同都指揮康政率官軍二千、巨舡五十再至。民皆如故、独永寧寺破毀、基址有焉……時衆議西郭仍建原寺、敢不復治」
- ^ 『明宣宗実録』宣徳八年八月十四日(甲午)「奴児干都司都指揮同知康福……等貢馬。……弗提衛女直指揮同知仏家奴等十七人従中官亦失哈、往奴児干還、貢方物。賜之綵幣表裏絹布有差」
- ^ 『明宣宗実録』宣徳九年二月二十四日(壬申)「兀者衛指揮僉事猛哥禿等三人随内官亦失哈帰自奴児干。賜之綵幣表裏金織紵絲襲衣等物」
- ^ 江嶋(1999), p. 88-89.
- ^ 江嶋(1999), p. 68-66.
- ^ 『明英宗実録』景泰元年二月十八日(癸巳)「鎮守遼東太監易信言、軍中手把銃発、輒不継賊已習知、毎乗隙進兵……」
- ^ 『明英宗実録』景泰元年四月二十日(癸巳)「命遼東定遼前衛指揮僉事何海署都指揮僉事、備禦広寧従鎮守太監易信奏請也」
- ^ 『明英宗実録』景泰元年五月十五日(戊午)「召鎮守遼東太監易信還。京陞羽林前衛指揮使李縉為貴州都指揮僉事。時建州衛都督李満住潜通胡虜、都督剌塔散兵剽掠。少保兼兵部尚書于謙、以信縉皆其親党恐泄事機、請密為区処、故有是命」
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