樺太アイヌのその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 03:19 UTC 版)
「モンゴルの樺太侵攻」の記事における「樺太アイヌのその後」の解説
1305年(大徳9年)、アイヌが大陸のナムホやチュモ川などを襲撃し、元軍が追跡するも及ばなかった。 1308年(至大元年)にはアイヌの首長玉善奴(イウシャンヌ)と瓦英(ウァイン)らが、ニヴフの多伸奴・亦吉奴らを仲介として、毛皮の朝貢を条件に元朝への服属を申し入れた。 14世紀前半に熊夢祥によって書かれたと思われる大都(北京)の地誌『析津志』には、銀鼠(オコジョ)に関する記事中に「遼東の骨嵬に之が多く、野人が海上の山藪に店舗を設け、中国の物産と交易する」と記されており、アイヌと野人女真との間で沈黙交易が行われていたことが伺える。この史料中の「海上」は当時「海島」と呼ばれた樺太である可能性が高い。逆に中国からアイヌへもたらされた蝦夷錦は、津軽安藤氏を通じて日本へも流通していく。 1368年に明王朝が成立し、モンゴル(元)は北へ後退。1387年には満洲(マンチュリア)地域からも元の勢力が後退し、アムール川下流域・樺太におけるモンゴルの影響も低下したため、再びアイヌは樺太へ進出したと思われる。 明の永楽帝は、1411年(永楽9年)に元の東征元帥府が置かれていたトィルに女真人の宦官亦失哈(イシハ)を派遣し、「奴児干都司」を設置させたが、この亦失哈が建てた仏教寺院の永寧寺(えいねいじ)に1413年に建てられた石碑『奴児干永寧寺碑記』によれば、当時の樺太にはアイヌが住んでいたという。ただし、奴児干都司は元の東征元帥府に較べて影響力が弱く、1433年建立の「重建永寧寺碑記」には寺が焼かれたことが示されており、仏教を利用した明の統治は先住民の人たちからは受け入れられず、奴児干都司も程なく機能を停止した。なお、1806年に樺太から間宮海峡を渡ってアムール川下流域まで進んだ日本の間宮林蔵や、同地が清領からロシア帝国領に編入される時期の1854年から1860年にかけてアムール川下流域を探索したロシア人探検家は明代にトィルの丘に築かれたモニュメントを目撃し、後者はスケッチで残している。 また1449年の土木の変以後、明の北方民族に対する影響力が低下すると、アイヌと明との交易も急激に衰え、生活必需品である鉄器などの供給が枯渇し、アイヌにとって日本本土との交易への依存度が高くなる。和人との間で鉄刀(マキリ)の値段交渉決裂をきっかけとして起きたコシャマインの戦いも、これらの状況が背景にあった可能性がある。
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