樺太工業への合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:19 UTC 版)
1913年12月、樺太進出を目的に、中央製紙や木曽興業など大川系の製紙会社の出資により樺太工業が設立された。樺太工業は樺太でパルプ工場や製紙工場を建設していくのだが、合理化を目的に大川系製紙会社を樺太工業に一元化することとなった。そのため中央製紙は九州製紙・中之島製紙とともに、1926年4月1日、樺太工業に吸収合併された。工場は、旧中央製紙のものは同社中津工場、旧木曽興業のものは木曽工場とされた。 樺太工業に継承された2工場のうち、木曽工場は1928年7月に閉鎖された。木材の調達先が遠方である点が不利となっていたためであった。2台あった抄紙機は、中津工場と樺太の恵須取工場にそれぞれ移設された。工場建物については製糸工場として再出発し、その後鐘淵紡績木曽工場となるが、日中戦争下の1939年に閉鎖。1943年から今度は石川島芝浦タービンの機械工場となった。同工場は2012年現在、その流れ汲むIHIグループのIHIターボによって操業を続けている。 一方中津工場については1933年に、樺太工業を王子製紙(初代)が合併したため、王子製紙中津工場となった。戦後の1949年に王子製紙は解体され、工場は本州製紙が継承した。現在では王子グループの王子エフテックス中津工場として操業を継続している。
※この「樺太工業への合併」の解説は、「中央製紙」の解説の一部です。
「樺太工業への合併」を含む「中央製紙」の記事については、「中央製紙」の概要を参照ください。
- 樺太工業への合併のページへのリンク