樺太工業の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/15 10:13 UTC 版)
続いて大川は、さらなる事業拡大を目的に樺太への進出を目指した。このころには王子製紙・富士製紙の大手2社は北海道に進出し、豊富な針葉樹資源を基とする洋紙の量産体制を敷いていた。一方で北海道に進出していない国内企業は針葉樹資源が次第に減少していく中で、事業の拡大が不可能になっていた。この状況にもかかわらず事業拡大を目指す大川が着目したのは、王子・富士両社によって資源がほぼ掌握されていた北海道ではなく、さらにその北にあって両社がまだ進出していなかった樺太であった。 1911年、大川は九州製紙・中央製紙・四日市製紙の3社共同で樺太の国有林の伐採権を取得し、1913年から3社の工場へ木材をパルプ原木として供給を開始した。一方、三井物産も1911年に樺太国有林の伐採権を得、三井合名会社と共同し王子製紙の技術協力の下、1913年6月に樺太南部海岸の大泊町において亜硫酸パルプ(SP,Sulfite Pulp)工場の建設に着手した(1914年11月操業開始。後の王子製紙大泊工場で樺太初のSP工場)。これを受けて大川は、大川系企業5社と関係者とともに同年12月、急遽樺太工業を立ち上げ、三井・王子の樺太進出に対抗した。なお、樺太工業は1913年1月に設立された樺太林産を改称したものである。 1915年原料から製品までの一貫した新工場を釧路に設置することを企画。1916年 釧路工場建設を目的に北海道興業を同年12月13日日本橋倶楽部の創立総会で設立し建設工事をはじめた。1919年釧路工場建設中に北海道興業は大川平三郎が社長である富士製紙に経営統合し以後、富士製紙のもとで建設工事が進められる。 樺太工業は当初パルプの専業メーカーとして計画された。すなわち、出資元の製紙会社やそれ以外の一般市場に樺太材パルプを供給することを目的としていた企業であった。1915年5月、樺太西海岸の泊居町においてパルプ工場の建設に着手して三井・王子に追随し、同年8月に亜硫酸パルプを生産する泊居工場の操業を開始した。操業開始は、第一次世界大戦の影響でヨーロッパからのパルプ輸入が途絶し国内でもパルプ価格が高騰していた時期になったため、樺太工業は高収益を上げた。 続いて、同じ西海岸の真岡町に第2の工場を建設した。1919年9月に操業を開始した真岡工場で、亜硫酸パルプのほか抄紙機も設置して洋紙の生産を始めた。真岡工場の新設により、樺太工業は当初のパルプ専業メーカーから紙パルプ一貫メーカーに転換した。
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