富士製紙への合併
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1893年に四日市製紙の技術顧問となった大川平三郎は、当時は王子製紙に在籍していたが1898年に同社を退職。ともに王子を退職した技術者や職工など40名余りとともに工場建設中の四日市製紙に移籍してきた。同年末には四日市製紙の専務取締役に就任した。しかし大川とともに移籍した者と従来からの四日市製紙の従業員との相性が悪く、大川自身も株主らと対立したため、引き連れてきた技術者・職工らとともに1901年(明治34年)上海の製紙会社へと再移籍し、1903年(明治36年)には専務も辞任して顧問に戻った。 この後、大川は上海から日本に帰国、熊本県の九州製紙や岐阜県の中央製紙などの経営に関わり、1908年に取締役として四日市製紙に復帰した。また株式の取得も進め、1913年(明治45年)の時点では全株式の5.0%を保有する筆頭株主となった。1918年(大正7年)には社長に就任する。四日市製紙は大川系製紙会社の一員として、樺太工業の設立にも参加した。 大川は1919年(大正8年)6月、当時の大手製紙会社である富士製紙の社長に就任した。それから5か月後の同年11月、大川が社長を兼ねる富士製紙と四日市製紙の合併が決定した。四日市の株主の一部から合併反対の動きがあったが、翌1920年(大正9年)2月に実行され、富士製紙は四日市製紙に吸収された。 四日市製紙の工場は富士製紙に合併された後、1933年(昭和8年)より王子製紙芝川工場となるが、戦時下で軍需工場に転換するために1943年(昭和18年)に操業を停止、王子鋳造として分離された。戦後は製紙業に復帰し、王子鋳造は1960年(昭和35年)には芝川製紙に社名変更。後に新富士製紙に合併し、富士製紙(2代目)、王子特殊紙を経て2012年(平成24年)より王子エフテックスという社名となった。旧四日市製紙の工場は、王子エフテックス東海工場芝川製造所として2012年現在も操業している。
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