富士製鐵大分・日本鋼管福山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:25 UTC 版)
「永野重雄」の記事における「富士製鐵大分・日本鋼管福山」の解説
1960年(昭和35年)池田総理による「所得倍増計画」で、鉄鋼の倍増計画も進められ、各鉄鋼会社も新製鉄所の建設計画を進めていた。各自治体も官民挙げて製鉄所の誘致を図ったが、広島県は富士製鐵の永野に誘致の要請を行った。富士製鐵は大分(新日鐵住金大分製鐵所)に決めかけていて無理だが、日本鋼管が土地を探しているというアドバイスを送り、これを受け、広島県と福山市が日本鋼管に強力な誘致運動を展開し、双方の条件が合い、1965年(昭和40年)2月、日本鋼管福山製鉄所(現・JFEスチール西日本製鉄所)が発足した。名古屋と違って、大分の場合は有力な財界の立役者が地元におらず、木下郁大分県知事、上田保大分市長と、大分県出身の在京政財界有力者および、エコノミストらによる誘致運動であったが、実質、永野・木下の人間的信頼関係と、意欲の同調的結合によって成し得たものであった。木下は中央政界において、永野の兄・護とは旧知の間柄であった。大分製鐵所は疲弊していた九州東部地区に活力を与えた。また永野は、九州経済連合会の草創期にも顧問として中央とのパイプ作りに尽力した。名古屋、大分とも製鉄業の処女地であった。広畑、室蘭、釜石は永野が育て、名古屋、大分は永野が新しく生み出した製鉄所である。
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