富士製鋼入社の頃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:25 UTC 版)
1925年(大正14年)、恩人・渋澤の子息に倒産会社・富士製鋼の再建を依頼されたが当時の富士製鋼は従業員が逃げ、敷地内にはペンペン草が生い茂っていた。重雄の最初の仕事はペンペン草の抜き取りとトノサマガエルの追い出しだった。1930年(昭和5年)ごろの世界恐慌では社員の給料が払えず、年末の銀行からの矢のような借金返済の催促に夜逃げしたこともある。恩人の頼みとはいえ東大まで出た自分がなぜこんなことをしなければいけないのかとしみじみ考えたが、持ち前の向意気の強さとマムシのようとも言われた執念で富士製鋼を再建させた。部下は留守番だけの時代から、やがて工員300人を数える会社となった。この頃には工員を後姿で見るだけでも誰か分かるようになり、後ろから「○○君、一杯どうだい?」と誘った。「人は後ろから声をかけられると、相手に親しみを憶えるものらしい」と苦労人らしい言葉を残している。 学歴をあまり信用せず、日本製鐵時代に採用試験で成績がいい方から九割採り、残りは一番ビリから採ったことがある。落第したようなヤツにいい仕事をするのがいるかも知れないと思ったからだが、これはすぐに辞めざるを得なかった。日鉄はビリから採用するという噂が立って、成績の悪いのがどっと押しかけて来たからである。
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