富士製紙時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 07:56 UTC 版)
1887年(明治20年)11月安田善次郎をはじめ元政府勧業局長河瀬秀治、元三田製紙所副社長村田一郎、森村組創業者森村市左衛門ら11人が発起人となり資本金25万円の製紙会社、富士製紙が静岡県で創業する。この富士製紙発足に当たって真島襄一郎は監工(工場長)として採用され、設立と同時に欧米へ出張を命じられた。製紙機械を購入し、また欧米の製紙技術などを視察するためである。約1年の出張で1889年(明治22年)1月機械設備を購入して帰国した。欧米の最先端の製紙業を見た真島が社長河瀬に提出した出張報告書で、近代的製紙の原料、技術、機械について述べ、さらに欧米の進んだ製紙業に対して日本の製紙会社の進むべき道を述べている。この報告書は日本の製紙界で「日本の製紙王」と呼ばれる大技術者・実業家である大川平三郎の洋行建白書と並んで日本の初期製紙業の基礎を作った貴重な文章とされている。それまでの日本の製紙業では紙の材料は襤褸(ボロ)か藁というのが常識で、1889年(明治22年)頃の紙商人ですら木材が紙になると聞いて驚いた時代である。 このとき、真島は製紙材料はこの時代以降木材パルプに移行すると見抜いた(欧米ではすでに移行していたが)。自分が工場長となった富士製紙入山瀬工場(富士第一工場)を当初予定の襤褸と藁を材料とする工場から、富士山麓に大量に生えているモミやツガを使いサルファルト・パルプ(SP 亜硫酸パルプ:化学パルプ)とグラウンド・パルプ(GP 砕木パルプ:機械パルプ)の二つを紙の材料とする工場へ変換しようと製造研究に取り掛かった。SPは品質のよい紙が作れるが技術的に難しくコストも高く、GPは技術的に容易でSPほど質の良い紙は作れないが襤褸と藁と比べると品質も良く価格も安くできる。 この時期、真島より一歩早く王子製紙の大川平三郎もSPの製造に取り組んでいたが、技術的に困難で壁に当たっていた。真島も大川と同じくSP製造では技術の壁に当たっていたが、王子がこの時期には採用しなかったGPでの紙製造開発に真島の工場はいち早く成功し1891年には新聞紙や更紙などをGPを用いて生産を開始している。王子製紙の大川平三郎はSPの製造では富士製紙より一歩早く成功するが、GPの成功で一歩先を進んだ富士製紙は1898年(明治38年)には生産量・売上高で王子製紙を抜き去り日本で最大手の製紙会社になる。この富士製紙の優勢は、王子製紙の最先端の巨大工場苫小牧工場が本格稼働するまで続くことになる。 真島はGPの生産に並行して、SPの研究もつづける。雇った技術者は学校を卒業したばかりのエメル・ネメチー。王子の大川でさえ苦労したSPでネメチーも真島も苦労するが1892年(明治25年)富士製紙のSP製造もなんとか立ち上がる。これを機に富士製紙は抄紙機の増設を図り生産量を増加させる。 富士製紙は真島の木材パルプへの先見の明によって日本の製紙界で一歩リードするが、その真島のところに1893年(明治26年)末、神戸の友人が訪れ「マッチ製造では廃材がどうしても出るが、その廃材を使ってマッチ箱用紙を安く作れないか?」と相談を受けた。当時、神戸ではマッチ製造が盛んで廃材も相当な量だったが、廃材はただ焼却していたのである。マッチ製造中に出る廃材は最初から小さく薄くなっていて普通の木材からパルプを作るより簡単で、大規模な設備もいらない。こう考えた真島はただちに(せっかく軌道に乗った会社だが)富士製紙を退職して事業を立ち上げる。
※この「富士製紙時代」の解説は、「真島襄一郎」の解説の一部です。
「富士製紙時代」を含む「真島襄一郎」の記事については、「真島襄一郎」の概要を参照ください。
- 富士製紙時代のページへのリンク