北海紙料への改組とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/07 10:10 UTC 版)
「前田製紙」の記事における「北海紙料への改組とその後」の解説
1902年(明治35年)5月、新たに北海紙料株式会社が設立された。経営の行き詰った前田製紙の幹部から援助を求められた富士製紙が、工場を改良して北海道における拠点としようと目論み、前田製紙の事業に参加することになったのである。富士製紙が株式の過半数を所有していた。 富士製紙が経営に参加した後も経営は好転しなかったが、操業は継続した。1905年(明治38年)5月に旧前田製紙が清算を完了したことから、これを契機に富士製紙は北海紙料の買収を決定する。1906年(明治39年)7月、富士製紙による買収が完了し、工場は富士製紙直営の「第四工場」となった。富士製紙時代は砕木パルプも製造し、1908年(明治41年)に新聞用紙の生産拠点として新設された江別工場(江別市、現・王子エフテックス江別工場)へと砕木パルプを供給する拠点となった。また、パルプに加えて新聞用紙の生産も開始し、釧路の新聞社などへと供給した。 こうして富士製紙第四工場として操業を継続していたところ、1913年(大正2年)1月4日、機械室から出火して工場が全焼した。全焼した第四工場は、その後、操業を再開することはなかった。 1916年(大正5年)樺太工業系の北海道興業(大川平三郎)が日本橋倶楽部の創立総会にて発足。1919年(大正8年)樺太工業が富士製紙と合併し、第四工場全焼から7年後の1920年(大正9年)、富士製紙の手によって、釧路の西、釧路郡鳥取村(現・釧路市鳥取南)に釧路工場が操業を開始した。釧路における製紙業の拠点は天寧から鳥取へ移った。同工場は王子製紙(初代)を経て十條製紙に継承され、現在でも日本製紙の基幹工場 釧路工場として操業を続けている。
※この「北海紙料への改組とその後」の解説は、「前田製紙」の解説の一部です。
「北海紙料への改組とその後」を含む「前田製紙」の記事については、「前田製紙」の概要を参照ください。
- 北海紙料への改組とその後のページへのリンク