日本の初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 13:32 UTC 版)
「アマチュア無線の歴史」の記事における「日本の初期」の解説
日本では1915年(大正4年)11月1日に施行された無線電信法第2条第5号により、個人や法人が無線電信または無線電話の実験を目的とする無線施設を逓信大臣の許可を受けて開設できることになった。もし大臣の許可を受けずに実験した場合の罰則規定は逆に強化されている。法的には個人による無線実験の道が拓かれたが、当初許可されたのは無線機器メーカーや大学・専門学校による学術研究や機器に関する実験のための私設無線電信のみであった。 個人による無線科学の学術研究や機器に関する実験のための施設、いわゆるアマチュア無線が法的に最初に許可されたのは1922年(大正11年)である。2月に濱地常康(東京一番・二番)、次いで8月には本堂平四郎(東京五番・六番)に私設無線電話施設が許可された。また、翌1923年(大正12年)4月には安藤博に私設無線電信無線電話施設(JFWA、東京九番)が許可された。さらに同年11月には安藤博に第2装置の増設(JFPA、東京十九番)が認められた。大正年間に許可されたのはこれら3施設のみであった。 1920年代前半、アマチュアでも真空管が入手できるようになると、中波で無線電話を実験するアンカバー局(無免許の無線局)が急増した。1925年(大正14年)になると東京、大阪、神戸などに、短波の無線電信を使うあらたなアンカバー局のグループが生まれ、1926年(大正15年)6月には37人の盟員によって日本素人無線聯盟(JARL、現・日本アマチュア無線連盟)が設立された。 1926年10月、安藤博の第2装置 JFPAに対して波長38m(7.89MHz)と波長80m(3.75MHz)の追加が認められた。これが個人に対するはじめての短波長の許可である。翌1927年(昭和2年)になると、短波長が割り当てられた無線局が次々に誕生した。4月には楠本哲秀(JLZB)と有坂磐雄(JLYB、有坂磐雄)、5月には國米藤吉(JMPB)、9月には草間貫吉(JXAX、草間貫吉)に私設無線電信無線電話施設が許可された。 1930年(昭和5年)にはすでに逓信省によって「アマチュア無線」という語が使用されていたが、無線電信法第2条第5号により許可された施設に対する正式な名称はまだなかった。しかし1934年(昭和9年)1月に施行された私設無線電信無線電話規則の第3条で、無線電信法第2条第5号により施設する私設無線電信無線電話に対して「実験用私設無線電信無線電話」の語が正式に与えられた(「私設無線電信無線電話実験局」という語は戦後に広まった通称)。ただし、これには無線機器メーカーの機器実験施設なども含まれていた。 個人が開設する実験用私設無線電信無線電話の施設は、1941年(昭和16年)12月時点で331局になっていたが、同年12月8日の太平洋戦争開戦に伴い、同日をもって、電波の発射は禁止された。
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