日本の別名とする説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 15:59 UTC 版)
日本の別称として用いた例としては、1094年の史書『扶桑略記』のタイトルの用例が見られるが、それ以前にも多くあり、最古の用例は貞観元年(859)の例がある。日本をわざわざ扶桑という別名でよぶのは、外交関係ないし対外的に中国を意識した漢詩や仏教関係で使われることが多かった。 室町時代に作成された行基図(地図)には、『日本扶桑国之図』というタイトルが付されている。 平田篤胤 (1776 - 1843) は、その著『大扶桑國考』(1836年)で、国王を意味するという「乙祁」を仁賢天皇の名とし、中国の伝説に表れる扶桑は日本のことだったとする説を唱えた(扶桑国にあるという文字を神代文字のことだともしている)。現代では宝賀寿男や大和岩雄も同様に日本の別名とする説である。
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