富士製鐵(東海製鐵)名古屋製鐵所
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「永野重雄」の記事における「富士製鐵(東海製鐵)名古屋製鐵所」の解説
1957年(昭和32年)佐々部晩穂名古屋商工会議所会頭と佐伯卯四郎中部経済連合会会長が、中部経済圏の代表として製鉄所の空白地だった名古屋に製鉄所を誘致したいと永野を訪ねてきた。二人は八幡製鉄、川崎製鉄、日本鋼管の各社長を歴訪した後で、1500億円ぐらいの資金がかかるため、各社検討するという返事だったが、永野は名古屋は新規に狙っている地区だったので「よろしい。進出しましょう」と即答した。あまりの即断に二人ともびっくりしていたといわれるが、これが中部地区最初の製鉄所・東海製鐵で現在の新日鐵住金名古屋製鐵所である。名古屋製鐵所は、永野の先見と創造の決断による第一号立地として建設された。同製鐵所は、トヨタ自動車を始め、中部地区の経済発展に大きく寄与した。加藤巳一郎中日新聞社社長は「中部地区の産業界にとっても永野さんは大恩人です」と述べている。また、重荷となっていた釜石製鐵所の余剰人員を名古屋に移動させた。
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