樺太千島交換条約までの沿革とは? わかりやすく解説

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樺太千島交換条約までの沿革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:31 UTC 版)

得撫郡」の記事における「樺太千島交換条約までの沿革」の解説

アイヌ和人活動 古くから交易品として重要なラッコ皮の特産地であり、蝦夷管領安東氏から室町幕府将軍に、松前氏から豊臣秀吉徳川家康らにそれぞれ献上されている。また、メナシクルラッコ漁場であり千島アイヌとの交易地でもあった(沈黙交易参照)。江戸時代になると、正保元年、「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩提出した藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39島々描かれていた。万治4年1661年伊勢国飯高郡松坂七郎兵衛の船が得撫島漂着したが、蝦夷アイヌ)の助け択捉国後・十州島(北海道本島)を経て寛文元年1662年)に江戸へ帰っている(『勢州北海漂着記』)。元禄13年1700年)には、幕命により松前藩千島勘察加を含む蝦夷全図と松前郷帳作成し正徳5年(1715年)になると、松前藩主は幕府対し「十州島、唐太、チュプカ諸島勘察加」は松前藩領と報告宝暦4年1754年)、得撫郡域は松前藩によって開かれた家臣知行地・クナシリ場所に含まれた。天明元年1781年)の『赤蝦夷風説考』寛政3年1791年)の『海国兵談』など北方警戒説いた書物影響江戸幕府主導北方探検盛んになると、天明6年1786年6月1日請負役・山口鉄五郎アッケシ乙名イコトイ得撫島渡航協力依頼竿取最上徳内通詞右衛門らと四艘の船に分乗し得撫島モシリヤに上陸。それからオホーツク海岸を調査。島の北端から北西にマカンルル島(武魯頓島)が見えたという。しかしアイヌ強く拒まれたため渡島断念し帰り太平洋岸を調査結果定住する者おらずメナシクルラッコ漁に来るのみで、ロシア人毛皮求め近海来航することがわかったという。寛政3年1790年)には請負役となった最上徳内再度得撫島調査享和元年1801年6月には富山元十郎深山平太八王子千人同心二名同行得撫島渡りオカイワタラの丘に「天長地久大日本属島」の標柱建てている。さらに彼らは島内トウボロシア人新知島アイヌらと会い来島理由尋ねたところ、ラッコ漁のためと返答があり交易希望していた。これに対し食料与え鎖国中のため交易国禁である旨伝えたという。文化3年1806年3月択捉島から脱走した新知郡域羅処和アイヌ有力者マキセン・ケレーコツ(アイヌ名・シレイタ)ら十数名を追い関屋八郎南部藩足軽たちとともに得撫島上陸した際、ロシア人帰国確認同年4月25日以降継右衛門ら6名の慶祥丸乗組員たちが、漂着したチュプカ諸島占守郡幌筵島新知郡羅処和島方面から南の択捉国後・十州島方面へ向かう際立寄っている。享和3年1803年)には間宮林蔵得撫島までの地図作製し、翌4年1月から2月にかけ恵登呂紗那会所運上屋)詰の松田伝十郎得撫島巡視した文化3年1806年以降得撫島警固対象となっていた(後述)。 ロシア人活動 イワン・チョールヌイがロシア人として初め得撫島ウルップ島、後の得撫郡)に到達周辺アイヌからヤサーク(毛皮税)の取り立て過酷な労働課し得撫島多数女性集めハーレム作った。しかし、1772年漁場奪われラッコ漁を妨害され択捉アイヌ新知郡羅処和島から逃れてきた羅処和アイヌ蜂起し得撫島とマカンルル島(武魯頓島)でプロトジャーコノフ商会ロシア人21名が討取られ残りカムチャツカ半島撤退したその後1776年に、ロシア毛皮商人による殖民団が得撫島一時的に居住したが、7年後1783年撤退した1780年6月地震発生。その津波打上げられナターリア号を海に戻すため、1784年コローミンが指揮するパーヴェル号が来航1795年夏、グレゴリー・シェリホフはアレクセイ号でケレトフセ(ワシリー・ズヴェズダチェトフ)ら40名の入植者派遣島内のワニナウにアレクサンドラ移住地を建設。しかし農作物栽培はほとんどうまくいかず、1797年窮状訴えるため14名がカムチャツカ向かったシェリホフはすでに死亡し救援なく、残された者たちの食料は相変わらずメナシクルとの交易依存していた。幕吏富山深山調査訪れた際、女子供含め17名がいたという。しかし、1801年以降メナシクル得撫島渡航新知島以北千島アイヌ択捉島への渡航禁止され、ケレトフセも病死しロシア人1805年帰国した1806年文化露寇フヴォストフ事件)の際、得撫島襲撃免れている。アヴォシ号は得撫・樺太攻撃出撃したものの、指揮するダヴィドフ日本北辺襲撃反対攻撃しなかった。1828年露米会社バイカル号でロシア人12名とアレウト49名を派遣し得撫島東岸小船湾に上陸建物建設し付近の丘に四門大砲設置し拠点としたが、クリミア戦争中の1855年8月英仏艦隊得撫島小船湾の居住地一時的に占領1868年露米会社廃止され居住地活動停止残留アレウトたちは樺太・千島交換条約猶予期間満了前年1877年)の移送まで得撫島取り残された。 幕府による直接統治 江戸時代後期得撫郡域は東蝦夷地属していた。南下政策強力に推し進めるロシアの脅威備え寛政11年1799年得撫郡域は公議御料とされた。文化3年1806年以降幕吏たちが南部津軽足軽通辞番人蝦夷アイヌ)たちとともに毎年得撫島見回り実施。また文化13年1816年6月には、ロシアパヴェル号が得撫島沖に来航占守郡域の春牟古丹島漂着した永寿丸の乗員太平洋上で英国船に救助された督乗丸の小栗重吉音吉半兵衛漂流民計6名をペトロパブロフスクから送還半兵衛航海病気死亡した得撫島上陸した5名は地元アイヌ案内択捉島のシベトロ番屋まで帰還池田寛親『船長日記』)することができた。ゴローニン事件の後、幕府得撫郡域を立入禁止緩衝地帯にする予定であった文政4年1821年得撫郡域は松前藩領に復したが、安政元年1854年日露和親条約不平等条約のひとつ)により得撫島ロシア領とされた。1875年11月樺太・千島交換条約によって再び日本となった後、得撫郡置かれる北海道千島国属した

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