樺太千島交換条約までの沿革
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「得撫郡」の記事における「樺太千島交換条約までの沿革」の解説
アイヌや和人の活動 古くから交易品として重要なラッコ皮の特産地であり、蝦夷管領安東氏から室町幕府将軍に、松前氏から豊臣秀吉・徳川家康らにそれぞれ献上されている。また、メナシクルのラッコ漁場であり千島アイヌとの交易地でもあった(沈黙交易も参照)。江戸時代になると、正保元年、「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれていた。万治4年(1661年)伊勢国飯高郡松坂の七郎兵衛の船が得撫島に漂着したが、蝦夷(アイヌ)の助けで択捉・国後・十州島(北海道本島)を経て寛文元年(1662年)に江戸へ帰っている(『勢州船北海漂着記』)。元禄13年(1700年)には、幕命により松前藩は千島や勘察加を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成し、 正徳5年(1715年)になると、松前藩主は幕府に対し「十州島、唐太、チュプカ諸島、勘察加」は松前藩領と報告。宝暦4年(1754年)、得撫郡域は松前藩によって開かれた家臣の知行地・クナシリ場所に含まれた。天明元年(1781年)の『赤蝦夷風説考』や寛政3年(1791年)の『海国兵談』など北方警戒を説いた書物の影響で江戸幕府主導の北方探検が盛んになると、天明6年(1786年)6月1日請負役・山口鉄五郎がアッケシ乙名イコトイに得撫島渡航の協力を依頼、竿取・最上徳内や通詞・林右衛門らと四艘の船に分乗し得撫島モシリヤに上陸。それからオホーツク海岸を調査。島の北端から北西にマカンルル島(武魯頓島)が見えたという。しかしアイヌに強く拒まれたため渡島を断念し、帰りは太平洋岸を調査。結果、定住する者おらずメナシクルがラッコ漁に来るのみで、ロシア人も毛皮を求め近海に来航することがわかったという。寛政3年(1790年)には請負役となった最上徳内が再度得撫島を調査。享和元年(1801年)6月には富山元十郎と深山宇平太が八王子千人同心二名の同行で得撫島に渡りオカイワタラの丘に「天長地久大日本属島」の標柱を建てている。さらに彼らは島内のトウボでロシア人や新知島アイヌらと会い来島の理由を尋ねたところ、ラッコ漁のためと返答があり交易も希望していた。これに対し食料を与え鎖国中のため交易は国禁である旨伝えたという。文化3年(1806年)3月、択捉島から脱走した新知郡域羅処和アイヌの有力者マキセン・ケレーコツ(アイヌ名・シレイタ)ら十数名を追い、関屋茂八郎が南部藩足軽たちとともに得撫島に上陸した際、ロシア人の帰国を確認。同年4月25日以降、継右衛門ら6名の慶祥丸乗組員たちが、漂着したチュプカ諸島(占守郡幌筵島・新知郡羅処和島)方面から南の択捉・国後・十州島方面へ向かう際立ち寄っている。享和3年(1803年)には間宮林蔵が得撫島までの地図を作製し、翌4年1月から2月にかけ恵登呂府紗那会所(運上屋)詰の松田伝十郎が得撫島を巡視した。文化3年(1806年)以降は得撫島も警固の対象となっていた(後述)。 ロシア人の活動 イワン・チョールヌイがロシア人として初めて得撫島(ウルップ島、後の得撫郡)に到達、周辺のアイヌからヤサーク(毛皮税)の取り立てや過酷な労働を課し、得撫島で多数の女性を集めハーレムを作った。しかし、1772年漁場を奪われラッコ漁を妨害された択捉アイヌと新知郡域羅処和島から逃れてきた羅処和アイヌが蜂起し、得撫島とマカンルル島(武魯頓島)でプロトジャーコノフ商会のロシア人21名が討取られ残りはカムチャツカ半島へ撤退した。その後も1776年に、ロシアの毛皮商人による殖民団が得撫島へ一時的に居住したが、7年後の1783年に撤退した。1780年6月地震が発生。その津波で打上げられたナターリア号を海に戻すため、1784年コローミンが指揮するパーヴェル号が来航。1795年夏、グレゴリー・シェリホフはアレクセイ号でケレトフセ(ワシリー・ズヴェズダチェトフ)ら40名の入植者を派遣。島内のワニナウにアレクサンドラ移住地を建設。しかし農作物の栽培はほとんどうまくいかず、1797年窮状を訴えるため14名がカムチャツカに向かったがシェリホフはすでに死亡し救援なく、残された者たちの食料は相変わらずメナシクルとの交易に依存していた。幕吏の富山や深山が調査で訪れた際、女子供を含め17名がいたという。しかし、1801年以降メナシクルの得撫島渡航と新知島以北の千島アイヌの択捉島への渡航を禁止され、ケレトフセも病死しロシア人は1805年帰国した。1806年の文化露寇(フヴォストフ事件)の際、得撫島は襲撃を免れている。アヴォシ号は得撫・樺太攻撃に出撃したものの、指揮するダヴィドフは日本北辺襲撃に反対で攻撃しなかった。1828年露米会社がバイカル号でロシア人12名とアレウト49名を派遣し得撫島東岸の小船湾に上陸、建物を建設し付近の丘に四門の大砲を設置し拠点としたが、クリミア戦争中の1855年8月英仏艦隊が得撫島小船湾の居住地を一時的に占領、1868年露米会社が廃止され居住地の活動停止。残留アレウトたちは樺太・千島交換条約の猶予期間満了前年(1877年)の移送まで得撫島に取り残された。 幕府による直接統治 江戸時代後期、得撫郡域は東蝦夷地に属していた。南下政策を強力に推し進めるロシアの脅威に備え、寛政11年(1799年)得撫郡域は公議御料とされた。文化3年(1806年)以降、幕吏たちが南部・津軽の足軽、通辞、番人、蝦夷(アイヌ)たちとともに毎年得撫島の見回りを実施。また文化13年(1816年)6月には、ロシア船パヴェル号が得撫島沖に来航、占守郡域の春牟古丹島に漂着した永寿丸の乗員と太平洋上で英国船に救助された督乗丸の小栗重吉、音吉、半兵衛ら漂流民計6名をペトロパブロフスクから送還。半兵衛は航海中病気で死亡したが得撫島に上陸した5名は地元アイヌの案内で択捉島のシベトロ番屋まで帰還(池田寛親『船長日記』)することができた。ゴローニン事件の後、幕府は得撫郡域を立入禁止の緩衝地帯にする予定であった。文政4年(1821年)得撫郡域は松前藩領に復したが、安政元年(1854年)日露和親条約(不平等条約のひとつ)により得撫島はロシア領とされた。1875年11月樺太・千島交換条約によって再び日本領となった後、得撫郡が置かれる。北海道千島国に属した。
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