天長地久大日本属島とは? わかりやすく解説

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天長地久大日本属島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/20 09:46 UTC 版)

天長地久大日本属島(てんちょうちきゅうだいにほんぞくとう)は、江戸時代後期の幕臣富山元十郎(保高)らによって、享和元年(1801年)6月に得撫島に建てられた標柱[1]。「天長地久」とは『老子』7章からの引用で「天長く地久し」の意味[注釈 1]


注釈

  1. ^ 戦前の祝日、「天長節」(現、天皇誕生日)、「地久節」はこれに由来する。
  2. ^ 北海道史学者の河野常吉は択捉島カムイワッカ岬に建てられた「大日本恵登呂府」の標柱に関する情報と「天長地久大日本属島」に関する情報が混同されたこともあったと指摘している[3]

出典

  1. ^ a b c 麓(1994)
  2. ^ 秋月(2014)pp.132-133
  3. ^ a b 河野常吉「國後擇捉の建標に關する斷案」『札幌博物学会会報』第4巻第1号、札幌博物學會、1912年9月、43-50頁、NAID 120006774209 


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天長地久大日本属島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 18:13 UTC 版)

大日本恵登呂府」の記事における「天長地久大日本属島」の解説

「天長地久大日本属島」も参照 1799年東蝦夷地上知にともない赴任した幕臣富山元十郎(保高)は、享和元年1801年)、択捉島得撫島調査して得撫島に「天長地久大日本属島」と記した標柱建てている。なお、このとき、トウボにおいてロシア人ケレトフセから同地事情聴取している。河野常吉は、しばしばこの標柱寛政12年択捉島カムイワッカオイに建てられ標柱混同されたことを指摘している。

※この「天長地久大日本属島」の解説は、「大日本恵登呂府」の解説の一部です。
「天長地久大日本属島」を含む「大日本恵登呂府」の記事については、「大日本恵登呂府」の概要を参照ください。

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