天長地久大日本属島
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天長地久大日本属島(てんちょうちきゅうだいにほんぞくとう)は、江戸時代後期の幕臣富山元十郎(保高)らによって、享和元年(1801年)6月に得撫島に建てられた標柱[1]。「天長地久」とは『老子』7章からの引用で「天長く地久し」の意味[注釈 1]。
注釈
出典
- ^ a b c 麓(1994)
- ^ 秋月(2014)pp.132-133
- ^ a b 河野常吉「國後擇捉の建標に關する斷案」『札幌博物学会会報』第4巻第1号、札幌博物學會、1912年9月、43-50頁、NAID 120006774209。
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- 2 天長地久大日本属島の概要
天長地久大日本属島
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「大日本恵登呂府」の記事における「天長地久大日本属島」の解説
「天長地久大日本属島」も参照 1799年の東蝦夷地上知にともない赴任した幕臣の富山元十郎(保高)は、享和元年(1801年)、択捉島と得撫島を調査して、得撫島に「天長地久大日本属島」と記した標柱を建てている。なお、このとき、トウボにおいてロシア人ケレトフセから同地の事情を聴取している。河野常吉は、しばしばこの標柱と寛政12年に択捉島カムイワッカオイに建てられた標柱が混同されたことを指摘している。
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