国後場所の成立と択捉場所の分立
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「千島国」の記事における「国後場所の成立と択捉場所の分立」の解説
江戸時代に入り、道東アイヌの領域では、寛永12年(1635年)、松前藩は 村上掃部左衛門に命じ国後・択捉などを含む蝦夷地の地図を作成した。正保元年(1644年)、各藩が提出した地図を基に日本の全版図を収めた「正保御国絵図」が作成された。このとき幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれていた。万治4年(1661年)、伊勢国飯高郡松坂の七郎兵衛の船が得撫島に漂着したが、蝦夷(アイヌ)の援助を受け択捉島や国後島経由で十州島(北海道本島)へ渡り、寛文元年(1662年)に江戸へ帰っている(『勢州船北海漂着記』)。延宝元年(1673年)勢州の商船、択捉島・トウシシルに漂着。 元禄13年(1700年)、幕命により松前藩は千島や勘察加(カムチャツカ)を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成した。正徳2年(1712年)には薩摩国大隅郡の船が択捉島に漂着している(『恵渡路部漂流記』)。正徳5年(1715年)、松前藩主は幕府に対し、「十州島、唐太、チュプカ諸島、勘察加」は松前藩領と報告した。享保16年(1731年)、国後および択捉の首長らが松前藩主のもとを訪れ、献上品を贈った。ウイマム交易である。 宝暦4年(1754年)、松前藩によって松前藩家臣の知行地として国後場所が開かれ、その範囲は国後島のほか択捉島や得撫島も含んだ。このとき国後島の泊には交易の拠点や松前藩の出先機関として運上屋が設けられている。運上屋では撫育政策としてオムシャなども行われた。漁場の状況については北海道におけるニシン漁史も参照されたい。宝暦6年(1756年)紀伊国日高郡薗村の船、択捉島モヨロに漂着。安永2年(1773年)飛騨屋が国後場所での交易を請け負うようになり、天明8年(1788年)には蝦夷(アイヌ)の人々を雇い大規模な〆粕製造を開始した。当時は新田開発や商品作物栽培が盛んであり、〆粕は肥料として大量に生産され、本州方面への重要な出荷品となっていた。しかし、寛政元年(1789年)労働条件や飛騨屋との商取引に不満を持った蝦夷が蜂起したクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)が勃発し、多くの和人が殺害されている。後に乱の平定に尽力したアイヌ乙名(お味方蝦夷)たちが松前に赴き、藩主にウイマム(お目見え、謁見)した。このとき彼らを題材とした夷酋列像が描かれている。この頃幕府は政権交代により、蝦夷地を従来通り松前藩に任せようとする松平定信と、幕府直轄の公議御料としてロシアに備えようとする本多忠壽が対立したが、最終的に松平定信の意見が通り、飛騨屋は松前藩により場所請負人から外され、没落した。 交通について、寛政2年(1790年)から翌3年(1791年)にかけ、工楽松右衛門によって択捉島に船着場の埠頭が整備され、寛政11年(1799年)に高田屋嘉兵衛によって択捉航路が運営されるようになると、翌寛政12年(1800年)には国後場所から分立し新たに択捉場所も開かれ、紗那に会所(運上屋)を置き択捉島に17箇所の漁場が設けられるとともに北前船も寄航していた。このとき、地元アイヌに漁具や漁網を贈り漁法も伝えられた。陸上交通については、渡船場1、旅宿所(通行屋)が数箇所存在した。その他、寛政年間には本州や和人地などと同様に郷村制がしかれ、アイヌの有力者を乙名(役蝦夷)に任命、住民を調べ恵登呂府村々人別帳(戸籍)を作製(江戸時代の日本の人口統計も参照)、アイヌは百姓身分に位置づけられていた(士農工商も参照)。 場所に関する制度的な詳細は商場(場所)知行制および場所請負制を参照 クナシリ場所・・・後の国後郡 エトロフ場所・・・後の択捉郡、振別郡、紗那郡、蘂取郡 ウルップ警固地・・・後の得撫郡 また、北方に対する警戒を説いた天明元年(1781年)の『赤蝦夷風説考』や寛政3年(1791年)の『海国兵談』などが著され、幕吏による北方探検も盛んに行われるようになった。天明6年(1786年)と寛政3年(1791年)には田沼意次の蝦夷地開発の意図を受け、最上徳内が国後場所の択捉島と得撫島を踏査し画期的な北辺図を作成した。寛政10年(1798年)には近藤重蔵が最上徳内を案内役として調査を行い、択捉島・丹根萌(タンネモイ)の丘に「大日本恵登呂府」の標柱を建てた。寛政12年(1800年)にも択捉島・カムイワッカオイの丘に「大日本恵登呂府」の標柱、享和元年(1801年)6月には幕府の命により調査にあたった富山元十郎と深山宇平太が得撫島オカイワタラの丘に「天長地久大日本属島」の標柱をそれぞれ建てている。富山や深山には八王子千人同心二名も同行。また、寛政12年(1800年)伊能忠敬は根室場所西別付近から国後島を遠測。享和3年(1803年)には間宮林蔵が西蝦夷地の測量を行い、得撫島までの地図を作製した。同年、松田伝十郎も択捉紗那会所詰となり同地で越年、翌年正月から得撫巡視している(『北夷談』)。文化3年(1806年)以降は道東アイヌの漁場であった得撫島も警固の対象となっていた(後述)。文化8年以降には、近海で銭屋五兵衛が抜荷取引を行っていたという。 チュプカ諸島(新知郡域及び占守郡域)における和人 千島アイヌの領域で記録に残っているものでは、正徳3年(1713年)勘察加東岸にいた和人・サニマ(南部出身の三右衛門)が占守島と幌筵島に上陸したほか和船の漂着例がある。いずれも占守郡域に漂着。 延享2年(1745年)春に温禰古丹島に南部藩領陸奥国北郡佐井村・多賀丸(竹内徳兵衛ら18人乗組)漂流民10名漂着。 享和4年(1804年)7月18日、陸奥国・慶祥丸が北千島の幌筵島・東浦に漂着し6人が上陸。慶祥丸の6人は新知郡域などを経て会所のある紗那郡域に帰還している。(詳細は後述) 文化10年(1813年)薩摩藩の永寿丸、春牟古丹島に漂着。(詳細は後述) 上記のほか、さらに北の勘察加は和人漂流民の十字路となっていた。 勘察加での漂流民の様子は勘察加(カムチャツカ)を参照
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