国後場所の成立と択捉場所の分立とは? わかりやすく解説

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国後場所の成立と択捉場所の分立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:46 UTC 版)

千島国」の記事における「国後場所の成立と択捉場所の分立」の解説

江戸時代入り道東アイヌの領域では、寛永12年1635年)、松前藩村上掃部左衛門命じ国後択捉などを含む蝦夷地地図作成した正保元年1644年)、各藩提出した地図を基に日本の全版図収めた正保御国絵図」が作成された。このとき幕命により松前藩提出した藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39島々描かれていた。万治4年1661年)、伊勢国飯高郡松坂七郎兵衛の船が得撫島漂着したが、蝦夷アイヌ)の援助を受け択捉島国後島経由で十州島(北海道本島)へ渡り寛文元年1662年)に江戸へ帰っている(『勢州北海漂着記』)。延宝元年1673年勢州商船択捉島・トウシシルに漂着元禄13年1700年)、幕命により松前藩千島勘察加カムチャツカ)を含む蝦夷全図と松前郷帳作成した正徳2年1712年)には薩摩国大隅郡の船が択捉島漂着している(『恵渡路部漂流記』)。正徳5年(1715年)、松前藩主は幕府対し、「十州島、唐太、チュプカ諸島勘察加」は松前藩領と報告した享保16年1731年)、国後および択捉首長らが松前藩主のもとを訪れ献上品贈ったウイマム交易である。 宝暦4年1754年)、松前藩によって松前藩家臣知行地として国後場所が開かれその範囲国後島のほか択捉島得撫島含んだ。このとき国後島の泊には交易拠点松前藩出先機関として運上屋設けられている。運上屋では撫育政策としてオムシャなども行われた漁場状況については北海道におけるニシン漁史参照されたい。宝暦6年1756年紀伊国日高郡薗村の船、択捉島モヨロに漂着安永2年1773年飛騨屋国後場所での交易請け負うようになり、天明8年1788年)には蝦夷アイヌ)の人々雇い大規模な〆粕製造開始した当時新田開発商品作物栽培が盛んであり、〆粕肥料として大量に生産され本州方面への重要な出荷となっていた。しかし、寛政元年1789年労働条件飛騨屋との商取引に不満を持った蝦夷蜂起したクナシリ・メナシの戦い寛政蝦夷蜂起)が勃発し多く和人殺害されている。後に乱の平定尽力したアイヌ乙名お味方蝦夷)たちが松前に赴き、藩主ウイマムお目見え謁見)した。このとき彼らを題材とした夷酋列像描かれている。この頃幕府政権交代により、蝦夷地従来通り松前藩任せようとする松平定信と、幕府直轄公議御料としてロシア備えようとする本多忠壽が対立したが、最終的に松平定信意見通り飛騨屋松前藩により場所請負人から外され没落した交通について寛政2年1790年)から翌3年1791年)にかけ、工楽松右衛門によって択捉島船着場埠頭整備され寛政11年1799年)に高田屋嘉兵衛によって択捉航路運営されるうになると、翌寛政12年(1800年)には国後場所から分立し新たに択捉場所も開かれ紗那会所運上屋)を置き択捉島17箇所漁場設けられるとともに北前船寄航していた。このとき、地元アイヌ漁具漁網贈り漁法伝えられた。陸上交通については、渡船場1、旅宿所通行屋)が数箇所存在した。その他、寛政年間には本州和人地などと同様に郷村制がしかれ、アイヌ有力者乙名役蝦夷)に任命住民調べ登呂人別帳戸籍)を作製江戸時代の日本の人口統計参照)、アイヌ百姓身分位置づけられていた(士農工商参照)。 場所に関する制度的な詳細商場(場所)知行制および場所請負制参照 クナシリ場所・・・後の国後郡 エトロフ場所・・・後の択捉郡振別郡紗那郡蘂取郡 ウルップ警固地・・・後得撫郡 また、北方対す警戒説いた天明元年1781年)の『赤蝦夷風説考』寛政3年1791年)の『海国兵談』などが著され、幕吏による北方探検盛んに行われるようになった天明6年1786年)と寛政3年1791年)には田沼意次蝦夷地開発意図を受け、最上徳内国後場所の択捉島得撫島踏査し画期的な北辺図を作成した寛政10年1798年)には近藤重蔵最上徳内案内役として調査行い択捉島・丹根萌(タンネモイ)の丘に「大日本恵登呂府」の標柱建てた寛政12年1800年)にも択捉島・カムイワッカオイの丘に「大日本恵登呂府」の標柱享和元年1801年6月には幕府の命により調査あたった富山元十郎深山平太得撫島オカイワタラの丘に「天長地久大日本属島」の標柱それぞれ建てている。富山深山には八王子千人同心二名同行また、寛政12年1800年伊能忠敬根室場所西別付近から国後島を遠測。享和3年1803年)には間宮林蔵西蝦夷地測量行い得撫島までの地図作製した同年松田伝十郎択捉紗那会所詰となり同地越年翌年正月から得撫巡視している(『北夷談』)。文化3年1806年以降道東アイヌ漁場であった得撫島警固対象となっていた(後述)。文化8年以降には、近海銭屋五兵衛抜荷取引行っていたという。 チュプカ諸島新知郡域及び占守郡域)における和人 千島アイヌの領域記録残っているものでは、正徳3年1713年勘察加東岸にいた和人・サニマ(南部出身の三右衛門)が占守島幌筵島上陸したほか和船漂着例がある。いずれも占守郡域に漂着延享2年1745年春に温禰古丹島南部藩領陸奥国北郡佐井村多賀丸(竹内徳兵衛18人乗組)漂流10漂着享和4年1804年7月18日陸奥国・慶祥丸が北千島幌筵島東浦漂着し6人が上陸。慶祥丸の6人は新知郡域などを経て会所のある紗那郡域に帰還している。(詳細後述文化10年1813年薩摩藩永寿丸、春牟古丹島漂着。(詳細後述上記のほか、さらに北の勘察加和人漂流民の十字路となっていた。 勘察加での漂流民の様子勘察加カムチャツカ)を参照

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