蝦夷地開拓と警固
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 13:54 UTC 版)
第一回八王子千人同心子弟入植と失敗 1800年(寛政12年)に公儀御料となった北海道・釧路・白糠場所には原胤敦が、胆振・勇払場所には弟の新助率いる千人同心の子弟が開拓を志し幕府に願い出て移住し、現在の苫小牧市や白糠町などの基礎を作った。1801年(享和元年)6月には富山元十郎と深山宇平太が幕命で得撫島(千島・得撫)に渡航しオカイワタラの丘に「天長地久大日本属島」の標柱を建てた際、八王子千人同心二名も同行した。同年、斜里山道も開削されたが開拓は困難を極め、1805年までに多摩地域に戻っている。1807年(文化4年)にロシア船が択捉島に来航した際、同心6名が派遣された。(文化露寇) 第二回八王子千人同心子弟入植 第2回の蝦夷地移住は安政6年(1858年)行われた。秋山幸太郎、野口宗十郎、秋山惣七、粟平金平、150名程度の入植が行われたと言われており、八王子千人同心子弟と確認できるのは80名程度、多くは厄介身分(相続権の無い身分)。手当は1年1人15両と支度金1人7両(厄介は2両)道中旅費1人3両。七重村薬園前(静観園)・藤村郷の二手に分かれて入植。明治元年(1857年)箱館戦争時に官軍として旧幕府軍と交戦。入植地は焼かれた。
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