蝦夷地売却とプロイセンの思惑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 03:10 UTC 版)
「会津戦争」の記事における「蝦夷地売却とプロイセンの思惑」の解説
2013年、五百旗頭薫東大教授らの研究チームが、会津・庄内両藩が、プロイセンから資金を借りる担保として「蝦夷地の土地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、ベルリンのドイツ連邦文書館で発見した。 それによると、「スネル兄弟(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(スネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイルの土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれていた。 幕末期の会津藩の土地は、現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部などであり、書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の土地に軍港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」とも綴られており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。 1865年、1867年、駐日公使マックス・フォン・ブラントと配下の農業技術者ライノルト・ガルトネルよる蝦夷地調査 ブラントの本国への報告書 「蝦夷地は気候が北ヨーロッパと酷似しており、土地は広大で水は豊か、農業牧畜に適している。蝦夷地は、5000人の海兵隊により、簡単に手に入れることができる」 ガルトネルの調査書 「北海道がジャガイモや麦などの栽培に最適である。気候は北ヨーロッパと似ており、土地は広大、水は豊か、牧畜には最適である」 ドイツ人にとって、ジャガイモ、ムギ、そして放牧に格好の土地である蝦夷地は、喉から手が出るほどに有益な土地であった。 1868年奥羽越列藩同盟 南部藩、津軽藩、松前藩、秋田藩、仙台藩 「ガルトネルが蝦夷地の土地を担保に、各藩と武器取引をした」 1869年 ガルトネル開墾条約事件 箱館近郊の土地七重町、広さ300万坪1000haの土地を99年間借りる 蝦夷共和国と条約締結 1889年、明治新政府はガルトネルに租借契約解除を申請 明治政府は賠償金62500両をガルトネルに支払う
※この「蝦夷地売却とプロイセンの思惑」の解説は、「会津戦争」の解説の一部です。
「蝦夷地売却とプロイセンの思惑」を含む「会津戦争」の記事については、「会津戦争」の概要を参照ください。
- 蝦夷地売却とプロイセンの思惑のページへのリンク