蝦夷・奥羽地方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 21:43 UTC 版)
弘前藩 宝暦の飢饉で疲弊した陸奥国弘前藩の財政を立て直すため、勘定奉行の乳井貢が宝暦6年(1756年)に導入したのが標符という藩札類似のものであった。藩札と異なり標符は、通帳のようになっており商取引が書き込む形式となっている特徴があった。 商人は一家一業を原則とし、全ての商品と蓄えられた米や金銀を半ば強制的に藩に納めさせ、改めて標符と商品を下付した。商人はすべての商いを標符で決算され、利益の一割を商人の取り分として残りは藩に納めさせた。また、藩の家臣は禄高に応じた銀の額の標符が渡され、買い物毎に商人がその標符に取引を書き込む形式を取った。 標符はあまりにも急進的な試みであったため、2年足らずで廃止、乳井貢も失脚した。 仙台藩 陸奥国仙台藩では幕府の許可を得て、藩内流通限定とした天明の大飢饉への救済を名目とした仙台通宝が天明4年(1784年)11月より作られた。江戸時代の地方貨としては初めての物である。仙台通宝は当時藩内経済の要衝であった石巻の鋳銭場で作られた。「鋳銭場」の地名は現在の石巻市中心部に残っている。また、同時期に紙幣としての藩札も発行された。藩札は、貞享・宝永・天明・升屋札・両替所札などがあげられる。 会津藩 陸奥国会津藩では、藩財政窮乏の打開と藩士救済を目的として、元締役 長井九八郎の意見具申を容れる形で元禄13年(1700年)に金札、翌年には銭札を発行した。しかし、町方、村方には受け入れられず、元禄16年(1703年)までに金札、銭札共に通用を停止した。その一方で、幕末に松平容保が京都守護職に就任したことに伴って播磨国加東郡・加西郡に役知領を有した同藩は、役知領の近隣に当たる播磨国加東郡小澤村の辻氏の引請による銀札を江戸末期頃に発行した。他に会津藩発行の貨幣としては、寛永通寶、天保通寶の密鋳銭、会津銀判などがある。 久保田藩 宝暦3年(1753年)から宝暦4年(1754年)、出羽国久保田藩は凶作に見舞われ、幕府に願い出て藩札を銀札1匁につき銭70文の相場で発行した。当初10匁、5匁、3匁、2匁、1匁の5種類だったが後に、3分、2分の藩札も発行された。当初は順調であったが、凶作による米の値上がりを見込んで商人らが米を隠匿するなどして藩札による買い上げを拒否した。また藩は凶作のため正貨で米を買い集めなければならなくなり、兌換の資金が流出してしまった。混乱のうちに宝暦7年(1757年)に藩札は廃止された。 失敗の責任が問われ、家老や銀札奉行などが切腹や蟄居など重い処分が下された。また藩主よりの中下層の藩士が連座についたが、佐竹一族や古くからの家臣は加増されるなど派閥争いの様相も垣間見えた(佐竹騒動)。
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