蝦夷地への進出とは? わかりやすく解説

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蝦夷地への進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:01 UTC 版)

高田屋嘉兵衛」の記事における「蝦夷地への進出」の解説

辰悦丸を入手した翌年寛政9年1796年)には、嘉兵衛兄弟力を合わせ初め蝦夷地まで商売の手広げた当時蝦夷地支配していたのは松前藩で、その城下にあたる松前では近江商人などが利権確保しており、新参者参入する余地はなかったようである。そこで嘉兵衛は、当時松前の三湊といわれた松前江差箱館中でも、まだほとんど開発されていなかった箱館拠点とし、寛政10年1798年)に弟の金兵衛箱館支配人とした。 嘉兵衛兵庫津で酒、塩、木綿などを仕入れて酒田運び酒田で米を購入して箱館運んで売り箱館では昆布魚肥仕入れて上方で売るという商売行った寛政11年1799年)から12年1800年)の間には辰悦丸を自己の持船とし、兵庫西出町に「諸国物産運漕高田屋嘉兵衛」の看板掲げ本店を置き独立している。 寛政11年1799年)、嘉兵衛厚岸滞在中、択捉島開拓の任に就いていた近藤重蔵依頼され国後島択捉島間の航路開拓した翌年寛政12年1800年)に嘉兵衛は、兵庫大坂大工らを雇い入れるとともに、米、塩、鍋や釜などの物資調達し、辰悦丸と4艘の船で択捉島渡った択捉島では17か所の漁場開きアイヌ漁法教えている。 享和元年1801年)、択捉航路発見択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛幕府から「蝦夷地定雇船頭」を任じられ苗字帯刀許される文化3年1806年)には大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられ、嘉兵衛漁場次々開拓蝦夷地経営で「高田屋」の財は上昇した文化6年大火箱館市街半分焼失した時、高田屋は被災者救済活動復興事業率先して行なった市内井戸掘や道路の改修開墾植林等も自己資金行なうなど、箱館基盤整備事業実施した文化7年1807年)には箱館港内を埋め立て造船所建設兵庫から腕利き船大工多数呼び寄せ、官船(似関船等)はじめ多くの船を建造した

※この「蝦夷地への進出」の解説は、「高田屋嘉兵衛」の解説の一部です。
「蝦夷地への進出」を含む「高田屋嘉兵衛」の記事については、「高田屋嘉兵衛」の概要を参照ください。

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