蝦夷の騒擾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 07:52 UTC 版)
蝦夷の上京朝貢が停止されてから半年後となる宝亀5年の夏(旧暦で4月から6月頃)、陸奥国の海道蝦賊が騒動し、民衆は塞の維持に駆り出され、耕作が出来ないという騒擾状態となった。 陸奥按察使・陸奥守・鎮守将軍を兼任して東北の軍事と行政を一身に担っていた大伴駿河麻呂は、この事態に対処するため都に奏状を呈し、「一は伐つべからず、一は必ず伐つべしと以為へり」と、征夷をおこなうべきか否かについて光仁天皇に勅断を求めたが、光仁天皇は人民を労することを慮って征夷を許可しなかった。 しかし、駿河麻呂はふたたび奏上し、蝦夷が野心を改めず、しばしば辺境を侵し、あえて王命を拒んでいると述べて、征夷の実施を強く訴え、同年7月23日(774年9月3日)、光仁天皇は征夷もやむなしと判断して実施を許可する命を下した。
※この「蝦夷の騒擾」の解説は、「桃生城襲撃事件」の解説の一部です。
「蝦夷の騒擾」を含む「桃生城襲撃事件」の記事については、「桃生城襲撃事件」の概要を参照ください。
- 蝦夷の騒擾のページへのリンク