蝦夷征討との関係とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 蝦夷征討との関係の意味・解説 

蝦夷征討との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 03:37 UTC 版)

三一権実諍論」の記事における「蝦夷征討との関係」の解説

宮原武夫1933年-)は最澄徳一論争ここまで大きくなったのは、最澄当時朝廷進めていた蝦夷征討徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。 最澄東国下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国当時朝廷推奨していた蝦夷征討兵站基地となっており、更に下野・上両国から陸奥出羽両国に対して国司からの課役逃れるための逃亡朝廷による移住政策によって多く人々移り住んでいた。蝦夷討伐には徳一法相宗含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮征討成功祈願したり、寺院神社建立するなどの積極的な協力行ってきた。朝廷から天台宗公認得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動き直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行き随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数天台宗寺院建立した伝えられており、最澄とその門人下野・上両国足掛かり奥羽人々対す教化進めようとしたとみられる。 これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動進めており、蝦夷征討への協力蝦夷がいる会津以北奥羽への布教を示す史料残されていない宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗違い蝦夷征討に対して祈祷教化通じた協力をせず、南の越後向かって宗勢を広げようとする徳一政治姿勢に対する批判・皮肉であったとみている。

※この「蝦夷征討との関係」の解説は、「三一権実諍論」の解説の一部です。
「蝦夷征討との関係」を含む「三一権実諍論」の記事については、「三一権実諍論」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「蝦夷征討との関係」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「蝦夷征討との関係」の関連用語

蝦夷征討との関係のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



蝦夷征討との関係のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの三一権実諍論 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS