蝦夷族長への君姓賜与
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「日本の古代東北経営」の記事における「蝦夷族長への君姓賜与」の解説
和銅3年3月10日(710年4月13日)、元明天皇が藤原京から平城京へと遷都した。その直後となる同年4月21日(710年5月23日)、律令国家は陸奥国側の蝦夷族長らに対して「君(キミ)の姓(カバネ)」を賜わり、編戸(戸籍・計帳に登載され、口分田を与えられて租庸調などの租税や労役を追う公民)と同じ待遇を保障することを許可している。これは蝦夷族長クラスの住人から律令国家に対して公民化を願い出たものと考えられており、以来、君姓は律令国家の支配秩序の中に編成された蝦夷族長が名乗る姓として制度化されていく。なお天平宝字3年10月8日(759年11月2日)には「君」の字が「公」の字に改められており、蝦夷族長の君姓も公姓へと換えられている。 霊亀元年10月(715年)、邑良志別君・須賀君の君姓を持つ蝦夷族長の請願によって、彼らの本拠地近傍に郡家が建てられた。陸奥の蝦夷第三等爵邑良志別君宇蘇弥奈の請願の主旨は「邑良志別君一族は親族の死亡により勢力が著しく弱体化したため、常に狄徒の襲撃に怯えており、その憂いを除くために香河村に郡家を建てたい」というものであった。蝦夷須賀君古麻比留の請願の主旨は「自分たち須賀君一族は先祖以来毎年昆布を国家に貢献してきたが、送付先である陸奥国府までは往還に20日をも要し、たいへん辛苦が多いので、近くの閇村に郡家を建てて百姓(公民)と同様の待遇をえて、永く昆布の貢献をおこないたい」というものであった。
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