人物・事績
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1833年(天保4年)、平取コタンにシュロクの長男として生まれ、松浦武四郎『左留日誌』のなかにも名前が記されている。幼年の頃から勇敢で知られ、成長してからは同胞の苦難を救うためにしばしば北蝦夷地(樺太)に渡った。 1876年(明治9年)、イギリス人宣教師のウォルター・デニングはペンリウクの家に来てアイヌ語を学んだという。1878年(明治11年)、イギリス人の旅行者イザベラ・バードを迎え、バードはその滞在の思い出を紀行文に残した。また、1879年(明治12年)、平取コタンを訪問したイギリス人宣教師ジョン・バチェラーにアイヌ語を教えている。 1880年(明治13年)、現在の平取町立平取小学校の前身である佐瑠太学校・平取分校の設置に尽力し、アイヌの子弟を就学させた。1887年(明治20年)には当時の北海道庁長官の岩村通俊に呼ばれて、アイヌの現状を語っている。 1903年(明治36年)、71歳で亡くなったとき、その遺産は土地や馬を合わせて千円もあったという。 平取町の義経神社の境内には「頌徳碑」が建立されている。
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人物・事績
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「マルチン・ゲルリッツエン・フリース」の記事における「人物・事績」の解説
1643年、東インド総督アントニオ・ヴァン・ディーメンの命を受け、中国北方にあると信じられていた「カタイヤ王国」、及び、日本の東方沖にあるとされた金銀島捜索のために結成された第2回太平洋探検隊の司令官としてカストリクム号に乗船、僚船ブレスケンス号(指揮官:ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープ(オランダ語版))とともに同年2月、バタビアを出航。5月に房総半島沖で暴風雨に遭遇し、ブレスケンス号を見失しなったが、単独で太平洋を北上し、樺太東方沖の北緯48度54分まで達した。その後、千島列島ではアイヌと交流し、択捉島と得撫島を発見、それぞれスターテン・ラント(オランダ国の土地)とコンパニース・ラント(オランダ東インド会社の土地)と命名して領土宣言をしている。 1643年8月15日、蝦夷地(現在の北海道)の厚岸に寄港し、9月2日までの18日間滞在記録がオランダ国立総合公文書館に保管されている。記録にはノイアサックというエカシ(アイヌの長老)の元で暮らすアイヌの生活とカキに代表される豊かな山海の幸に恵まれた厚岸の自然が記され、湾内などを測量。和人の交易船に遭遇、藩主手舟、上乗役小山五兵衛に出会っている。 ブレスケンス号は,盛岡藩領(現在の岩手県山田町)に上陸し、捕縛された。乗組員らは、しばらく後に釈放されたが、オランダの対応に対して幕府が満足せず、完全に解決を見たのは1650年(慶安3年)になってからであった。 日本近海における金銀島探索は、1612年のスペインのビスカイノ、1639年のオランダのクワスト(英語版)とアベル・タスマン以来3度目であるが、ヨーロッパ人による日本北方の航海はフリースが最初の例となる。また、奥州から蝦夷地、千島列島、樺太にかけての沿岸の実測地図を制作しているが、濃霧のために宗谷半島方面についての探索を断念したために宗谷海峡を発見できず、蝦夷地と樺太を同一の島と見誤っている。
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人物・事績
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製鉄技術を持たなかったアイヌは鉄製品を交易に頼っており、明や渡島半島から道南に進出した和人(渡党、道南十二館などを参照)との取引を行っていた。しかし1449年の土木の変以後、明の北方民族に対する影響力が低下すると明との交易が急激に衰え、和人への依存度が高まった。一方、安藤義季の自害により安藤氏本家が滅亡し、道南地域に政治的空白が生じた。 そうしたとき、アイヌの少年が志濃里(現、函館市。「志苔」「志海苔」「志法」とも表記される)の和人の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生し、怒った鍛冶屋がその小刀で客であるアイヌ少年を刺殺した。 1456年(康正2年)に発生したこの殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結した。1457年(長禄元年)5月14日、コシャマインらは大軍を率いて東は胆振の鵡川から西は後志の余市までの広い範囲で蜂起した。事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍はさらに進撃を続け、和人の拠点である花沢と茂別を除く道南十二館の内10までを落とした。1458年(長禄2年)に花沢館主蠣崎季繁によって派遣された季繁家臣武田信広によって七重浜でコシャマインとその子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。 コシャマイン父子は戦そのものには敗北したが、以後100年間も続く戦いの戦端を切ることとなった。この乱ののち、武田信広のもとに諸豪族の被官化が進み、その後裔は近世大名松前氏へと成長した。この事件の前年まで道南に滞在していた安東政季の動向などから、事件の背景に当時の北奥羽における南部氏と安東氏の抗争を見る入間田宣夫の見解や、武田信広と下国家政による蝦夷地統一の過程を復元しようとする小林真人の説がある。また、コシャマインのような大勢力を持つ首長層の出現を、和人・アイヌ民族双方の政治経済的成長ととらえる視点も存在する。 1994年(平成6年)以降、毎年7月上旬、北海道上ノ国町の夷王山でアイヌ・和人の有志によるコシャマインの慰霊祭が行われている。
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人物・事績
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寛政5年(1793年)、ロシア使節アダム・ラクスマンが、漂流民としてロシア帝国に捕囚されていた大黒屋光太夫をエカテリーナ号で護送してきた際、ラクスマンらの応対にあたった。 寛政11年(1799年)の東蝦夷地上知にともなって赴任し、その経営に当たった。享和元年(1801年)、択捉島および得撫島を調査し、得撫島オカイワタラの丘に「天長地久大日本属島」と記した標柱を建てるとともにトウボにおいてロシア人ケレトフセから同地の事情を聴取した。なお、富山・深山には八王子千人同心のうち2名も同行した。 箱館奉行所建設に際しては、井戸の水量不足を補うために箱館山を調査し湧水を発見した。箱館奉行の羽太正養はこれを「富山泉」と命名した。文化4年(1807年)、富山は箱館奉行調役に昇進している。その後の消息は不詳である。
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