人物・事績とは? わかりやすく解説

人物・事績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 13:55 UTC 版)

平村ペンリウク」の記事における「人物・事績」の解説

1833年天保4年)、平取コタンシュロク長男として生まれ松浦武四郎『左留日誌』のなかにも名前が記されている。幼年の頃から勇敢で知られ成長してからは同胞苦難を救うためにしばしば北蝦夷地樺太)に渡った1876年明治9年)、イギリス人宣教師ウォルター・デニングはペンリウクの家に来てアイヌ語学んだという。1878年明治11年)、イギリス人旅行者イザベラ・バード迎えバードはその滞在思い出紀行文残したまた、1879年明治12年)、平取コタン訪問したイギリス人宣教師ジョン・バチェラーアイヌ語教えている。 1880年明治13年)、現在の平取町平取小学校前身である佐瑠太学校・平取分校の設置尽力しアイヌの子弟を就学させた。1887年明治20年)には当時北海道庁長官岩村通俊呼ばれてアイヌ現状語っている。 1903年明治36年)、71歳亡くなったとき、その遺産土地や馬を合わせて千円もあったという。 平取町義経神社境内には「頌徳碑」が建立されている。

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人物・事績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 16:32 UTC 版)

マルチン・ゲルリッツエン・フリース」の記事における「人物・事績」の解説

1643年東インド総督アントニオ・ヴァン・ディーメンの命を受け、中国北方にあると信じられていた「カタイヤ王国」、及び、日本の東方沖にあるとされた金銀島捜索のために結成され第2回太平洋探検隊司令官としてカストリクム号に乗船僚船ブレスケンス号(指揮官:ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープ(オランダ語版))とともに同年2月バタビア出航5月房総半島沖で暴風雨遭遇し、ブレスケンス号を見失しなったが、単独太平洋北上し樺太東方沖の北緯4854分まで達したその後千島列島ではアイヌ交流し択捉島得撫島発見それぞれスターテン・ラント(オランダ国土地)とコンパニース・ラント(オランダ東インド会社土地)と命名し領土宣言をしている。 1643年8月15日蝦夷地現在の北海道)の厚岸寄港し9月2日までの18日滞在記録オランダ国総合公文書館保管されている。記録にはノイアサックというエカシ(アイヌ長老)の元で暮らすアイヌの生活とカキ代表される豊かな山海の幸に恵まれた厚岸の自然が記され湾内などを測量和人交易船に遭遇藩主手舟上乗役小山兵衛出会っている。 ブレスケンス号は,盛岡藩領現在の岩手県山田町)に上陸し捕縛された。乗組員らは、しばらく後に釈放されたが、オランダの対応に対して幕府満足せず、完全に解決見たのは1650年慶安3年になってからであった日本近海における金銀島探索は、1612年スペインビスカイノ1639年オランダのクワスト(英語版)とアベル・タスマン以来3度目であるが、ヨーロッパ人による日本北方航海フリース最初の例となる。また、奥州から蝦夷地千島列島樺太にかけての沿岸実測地図制作しているが、濃霧のために宗谷半島方面についての探索断念したために宗谷海峡発見できず、蝦夷地樺太同一の島と見誤っている。

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人物・事績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 06:16 UTC 版)

コシャマイン」の記事における「人物・事績」の解説

製鉄技術を持たなかったアイヌ鉄製品を交易頼っており、明や渡島半島から道南進出した和人渡党道南十二館などを参照)との取引行っていた。しかし1449年土木の変以後、明の北方民族対す影響力低下すると明との交易急激に衰え和人への依存度が高まった一方安藤義季自害により安藤氏本家滅亡し道南地域政治的空白生じたそうしたとき、アイヌ少年が志濃里(現、函館市。「志苔」「志海苔」「志法」とも表記される)の和人鍛冶屋小刀マキリ)を注文したところ、品質価格について争い発生し怒った鍛冶屋がその小刀で客であるアイヌ少年刺殺した。 1456年康正2年)に発生したこの殺人事件の後、首領コシャマイン中心にアイヌ団結した1457年長禄元年5月14日コシャマインらは大軍率いて東は胆振鵡川から西は後志余市までの広い範囲蜂起した事件現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落としたアイヌ軍はさらに進撃続け和人拠点である花沢と茂別を除く道南十二館の内10までを落とした1458年長禄2年)に花沢館主蠣崎季繁によって派遣された季繁家臣武田信広によって七重浜コシャマインその子が弓で射殺されるアイヌ軍は崩壊したコシャマイン父子は戦そのものには敗北したが、以後100年間も続く戦い戦端を切ることとなった。この乱ののち、武田信広のもとに諸豪族被官化が進みその後裔は近世大名松前氏へと成長した。この事件前年まで道南滞在していた安東政季動向などから、事件背景当時北奥羽における南部氏安東氏抗争を見る入間田宣夫見解や、武田信広下国家政による蝦夷地統一過程復元しようとする小林真人の説がある。また、コシャマインのような大勢力を持つ首長層の出現を、和人アイヌ民族双方政治経済成長ととらえる視点存在する1994年平成6年以降毎年7月上旬北海道上ノ国町夷王山でアイヌ和人有志によるコシャマイン慰霊祭が行われている。

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人物・事績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 18:25 UTC 版)

富山元十郎」の記事における「人物・事績」の解説

寛政5年1793年)、ロシア使節アダム・ラクスマンが、漂流民としてロシア帝国捕囚されていた大黒屋光太夫エカテリーナ号で護送してきた際、ラクスマンらの応対あたった寛政11年1799年)の東蝦夷地上知ともなって赴任し、その経営当たった享和元年1801年)、択捉島および得撫島調査し得撫島オカイワタラの丘に「天長地久大日本属島」と記した標柱建てるとともにトウボにおいてロシア人ケレトフセから同地事情聴取した。なお、富山深山には八王子千人同心のうち2名も同行した箱館奉行建設に際しては、井戸水量不足を補うために箱館山調査し湧水発見した箱館奉行羽太正養はこれを「富山泉」と命名した文化4年1807年)、富山箱館奉行調役に昇進している。その後消息不詳である。

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